熟読

この週は自宅のパソコンで株式の値動き急上昇急下降を示すグラフと睨み合っていました。

買った銘柄はひとつなので運を天に任せて待てば後から結果が出るという考え方もあろうけど、後付でも自分がどうしてその銘柄を買おうと考えるに至ったかという過程を全て振り返ると、本能とは別に分けられた知性で自由という言葉を知り、自由を理性で求めることの矛盾というか内包性つまり循環論理の罠が潜んでいることに気がついたんだよな。

まあ、とても簡単に言うと「好きな女を抱きたい」みたいな欲求でも、相手に狙って好きにさせられていたら、それは自分の意のままに女を抱いているのではなく誘われるままに操られている側面があるというか。願望を抱くにあたって外界から与えられた情報に操られたということが、本能で求めるままに自由であるという意思決定論とお互いに入れ子になる。

インド哲学の小宇宙論だよなそれはつまり。まあ、当然っちゃ当然の話だけど、いちど西洋哲学にハマって論理学で考えるようになってから、まだ覚えたことがまとまりきらず混乱している部分が残っていて、そして本を読んで辞書を引いても要約しているのか、自己都合的に読み飛ばして解釈しているのか、その線引をして熟読すると段々と必要な考えが少なくなってゆく。

結局それが男と女なら健全に行けば合体して子供になるわけだけど、それ以外の自然や人工物にお金の話や気分の良し悪しなど、人間って結局光と音を浴びて触れたもの食ったもの以外は幻覚と現実の区別をつけられない騙され放題の生き物よね。

それが分かれば全てが分かっているのかと言うと、案外そうでもなくて世界や外界が情報の示すように存在することを肯定して、移動して触れてそれを自分の思う通りに操る。俺の場合は子供の頃からテレビゲームに夢中だったので、パソコンを持ってディスプレイの示す画面とスピーカーやヘッドホンから出る音が自分の望むままになった時点で子供の頃からの願望がほとんど叶っている。それは求めずとも衣食住が祖父母両親から与えられ、姉くらいしか意のままにならぬものがなかったからだ。

それでも、与えられるものに何らかの不満は常に抱いていて、それが仕事の原動力だった。

そして大筋で願いが叶ったこの頃に過ぎ去った時を振り返っている。昨日は病気が辛くてもう死んでしまいたいとすら思ったのは死んだら生きているより楽になれると考えたからだが、病に苦しんで生きてもその先にまた健康を取り戻して新たな渇望と充足の波があると考えると、少しは楽になる。絶頂があったとして、人は忘却して再び残された記憶を手がかりにそれを求める。

子供の頃に麻疹にかかって体中が痒くなり、お医者さんに見てもらってうなされやがて治った。それから、何の異常もないのに不意に体中に水疱ができて苦しんで死ぬ夢に目覚めた。

本能のままに生きることが自由の定義ではあるが、知と技を伝承して自然と戦い生き残って人間は今に至る。そうして征服した世界の中に芸術や創作を築き上げ自らを恍惚たらしめる。

芸術が芸術足り得るのは表現までだけれど、現代社会は芸術と商品性が結びついて、子供の頃からそれに触れることで無意識に商品を手にする罠の中に多くの子供が生まれ育つ。

そして、仕事でお金を得て、その使途として自らを騙した何某かと提携をする。ミイラ取りがミイラになるというとてもありきたりな道程であった。束縛から逃れ、他者を操る手段として法で取り締まられる暴力や脅迫ではなく、また封建的な権力でもなく、誘惑で他者から利を得て暮らす。

株をするとやがて現況トヨタ自動車が日本一の企業であると分かるのだが、パトカー以外に人が無理やりクルマに乗せられるということはなく、多くの人がまるで自ら望んで乗っているかのように車に魅せられているのであろうな。


🄫1999-2023 id:karmen