理解するべき

博愛の名のもとに。

近所のクリーニング屋はもともとおもちゃ屋で駄菓子屋ゲーセンになってたこ焼き屋になって途中で主人が店で首をくくってワケあり物件になって店主の奥さんと息子がその場に残ってアレコレと商売を変えながらも商店街に居座っている。

その亡くなった店主の奥さんである店のおばちゃんは息子が独身なのでおばあちゃんではないが見た目からすっかりおばあちゃんである。駄菓子屋ゲーセンであるころにゲーム台が目当てでたむろして、同級生や近所の子供にゲームの相手が欲しい遠方の人間まで混ざって、様々に雑談をしていた。おばあちゃんは黙って聞いていた。

やがて、ゲームが古くなり進学や就職で多くのものが引っ越して家が近所の俺がたまに行くだけで誰も来なくなった。おばあちゃんは誰がどこにいるのか知らないし、俺が近所であることももしかしたら分かっていない。家は遠くで商店街まで店を開けに来ているのだが、俺んちは表向きは文具店だが細長い作りで店の奥が住居になっている。

おばあちゃんだけではなく、大学を出ていない人には大学には真理があり庶民はそれを隠されているという風に理解している人は多い。大学の目的は真理の究明であるが、真理とは何かということを考える哲学科は多くの大学で廃止され、理系は自然科学こそ真理であるとするものが多く、文系は数学がわからないから理系の一部が真理を知っていて、しかし庶民を騙すに足る学歴を持って接すれば食うに困らないと考えがちである。

俺の思うに真理とは営みの全てであるから、確かに自然科学的なアプローチでおおよそのことが解明されているが、俗語スラングや嘘や間違いによって起こる人間関係のもつれも混沌としながらも現象であることには変わりなく、騙されている人の頭の作りみたいなのも論理的に間違っていたとして、どう間違っているかを含めてその人の人となりという現象だ。

間違っていると思う人に対して啓蒙つまり正しい教えを持って相手を変えようとする立場、それと何をどう考えているのか理解を示して汲み取ろうという姿勢、あるいは理解の上で誤解を利用して騙そうとする立場など、反復になるがそれも現象で、俺はアメリカのような先進国がなぜ戦争をやめないかというと、共通語である英語の眷属で理解不可能なものを駆逐すれば社会が理解可能なもので満たされて秩序が保たれると考えるからだと思う。

俺も長らく前述のクリーニング屋のおばあちゃんを排除したいとか啓蒙したいと考えてきた。昔は黙っていたので気にしなかったが、話し相手の他の客もいなくなり少し世間話をするとやたら攻撃的な物言いで、俺に対して噛み付くようにしゃべる言葉の端々に理解できない鬱陶しさを感じたからだ。

だが、今なら分かる。俺の方がおばあちゃんを分からないから俺がおばあちゃんに腹を立てているのだ。自分も大卒ではなく専門卒という浅学の身分、それに対しておばあちゃんは中学校も出ていないのに俺が大学を出ていないのに偉そうだという。大学も旧帝大以外に私学やら専門職やら色々ある世の中なのだが、おばあちゃんが大学に対して抱いている想像の原像がつかめたら、何となく理解できた気はする。

人道主義であるべきなのだ。

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