微積分の青チャートでひとつの問題を気づけば1週間考えていた。
ロルの定理から平均値の定理に進んで傾きシータの値cを求める。
この求まった値cって別に平均でもなんでもないと思ったのです。
確かに値cを求めよと言われて例題があって公式ハメたら答出る。
それがなんか考えるツボにハマっちゃって、手帳見たら1週間も。
他の事もしながらだけど常に同じ問題を考えていたんですよね。
寒さと軽い運動でグルグルと考えていた事がどこかスッキリと。
さらに夜食をいただいて、缶ビール飲んで寝て起きての今日で。
麻雀でも打ちたくなって3DSの麻雀のアイコンをポチッと押す。
東風戦4局中跳満、満貫、流局、倍満というすごいツキっぷり。
通算成績で6回目の倍満はリーチとドラ7というまさに「運ゲー」
しかしこの運は今まで避けてきた「カン」を狙った事に起因して。
初心者のうちはポンカンチーと鳴きまくりでしたが脱初心者から、
何となく「鳴くのはアマ」という空気感の中で手役作りに進んで、
そして半荘から東風戦に戦場が変わってから食いタンありで鳴き、
そうしている間にカンは相手ドラリスクが上がるからいけないと、
どっかで思い込んだまま自分の打ち筋から外していたんですよね。
そして最後に打った対人麻雀で嶺上開花を上がる人が面子にいて、
リンシャン狙いならカンもありかなとは認めるようになったけど、
その時に4枚持ちの牌を暗刻と順子に読んで上がったりしてたの。
そん時に面子の人に「なんでカンしないの?」って尋ねられた時、
「相手の上がりにドラが乗るリスクの方が大きいと思う」答えて。
そこから自分がリーチして残り全員に降りられるという数時間が。
その徹満は結局1万5000円くらいの負けだったので持論は負けて。
それから後に俺は負け惜しみは言うものじゃないと思うに至った。
負け惜しみには正論が多いんです。負けて悔しいから理屈で返す。
しかしその出発点は負けであって、負けを認めながら論理で勝つ。
そういうことを繰り返すと博打とは勝てないものという癖がつく。
自分は負けても相手は勝っている以上相手にも正しい理屈がつく。
その後の俺が求めたものは麻雀での勝ちではなく15000円でした。
麻雀がゲームである以上は両者対等で徹夜で高レートともなると、
それは負けて15000円は惜しいけどする前は自分にも好奇心とか、
相手がどれくらい強いのかというのを侮り勝てるかもとも思った。
極端な話ジャンケンで自分の方が強いと思って1万円賭けてみて、
負けてあっという間に1万円を損してそこで嫌になって引いたと。
確かに麻雀は複雑なルールで戦略性を見込める要素もあるけれど、
そこに運を絡めて自分にも当たるかもと思わせる洗牌があって。
それを読み切れないものと仮定して確率的最善手を選んだとして、
それは近代麻雀の「何切る」と同じで中級以上ほぼ同回答となる。
そうすると理牌は互角で残りが運となると運ゲーでしかないわけ、
そうでないとするとそうでないケースの考え方分だけ負けている。
3DSの麻雀を500円でダウンロードして別後にVBで麻雀作った。
それから麻雀に「賭けるに値する」ラインを超えた事は全く無く。
ゲーセンで付き合いで麻雀格闘倶楽部に100円玉を2枚使ったが。
それも勝っても返ってこない虚しさに付き合うのが嫌で友達ごと。
ストリートファイター系の付き合いもほとんど断るようになった。
ついには2万円で買ったWiiのドラゴンクエストXまで月額で辞め。
ケータイのプランもいちばん安くなるように組み替えたりもして。
気がついたらカルドセプトの3DS版を500試合くらい遊んでいた。
俺の賭け事へのアプローチが「負けて良いカネを余して臨む」で、
そもそもが遊び代として払う側という前提に組み立てられている。
勝ちは「あわよくば」であり、それで稼ぐことを出発点としない。
しかし世の中には100円のために人を騙すような人も商売だから。
俺の家の文具屋の60円の鉛筆1本でも騙しと言えば人騙しかもだ。
なかなかどうして麻雀でも遊びだからと負けるようでは務まらず。