藤井聡太に肉体労働を強いるには将棋で勝たなければならない

働かないやくざ者のせいで自分が働かされるのは腹が立つという人はいる。

俺は元々商い屋の孫で親父で三代目そのまま継ぐと四代目で甘やかされた。

ゲームウォチやファミコンなどの電子機器で幼少体験を満たし、ディズニーランドに行ってもジェットコースターなどの乗り物よりもゲーセンの方に興味があり、家にゲーム機があってもゲーセンにある新作を常に求めるという性質であった。

ゲームは労働とは見做されない時代ではあるが、将棋は別格だった。野球もそうだ。子供の頃から将棋や野球が認められるのはメディアによる洗脳で、やがてテレビゲームをその地位にすればゲームを遊んでいても文句を言われなくなると子供ながら考えたし、今では文句を言われるどころか応援される日が来てしまった。

その世界においても家でできるゲーム機よりも古くなったゲーム台を置いて客を待ち、焚き付けて100円入れさせようとするのがキューピー堂のおばちゃんや街のパチスロ屋なのだ。まあ、パチスロの方が出玉があるし台も新しいが、新型のゲーム機の方が面白いという人と出玉がある方が面白いという人で意見は分かれるところだろう。

そうしてゲーム業界やIT業界に家電製品の組み込みマイコンなど、ソフトウェアという無形のものにも電子の状態の違いという微小の有形要素があり、製品化されて普及すると電気製品の一種として売り上げから幾許かの開発費用が計上され、やくざ者ではなく立派な仕事と見做される界隈もありつつ、しかしその取り分はまだまだ少ないと俺は考える。確かにIT業界のトップエンジニアともなると高い年収を宣伝されているが、武豊の年収が一時的に高かったとしても騎手が割のいい仕事であると考える人は少ないだろう。

それで俺が作り手の仕事を半ばボイコット状態で既製品で遊ぶということをしていられるのも先述の通りメディアでの広告が実用品よりも娯楽性の強いゲーム機の方に消費者がより大きな意義を認めていることと通じているからであろう。便利の度合いとして何もしなくて良いよりボタンを押す仕事が楽しいの方が勝っているのだ。

さて問題は、その仕事を元来から仕事にしているやくざ者との付き合いである。確かに近代化以前の言論では労働と見做されなかった遊戯と博打に公家と博徒な訳であるが、公家としての雅な遊戯と博徒との勝負では生活余剰とその日暮らしでかかる熱量に違いがあり、俺は元々は公家から商家になった道楽息子とか孫でありながら、雇われ労働者として働く羽目になった時に博徒は何故あんな風に遊んでいられるものなのかと不思議であったくらいだが、いよいよ暇になって張り合うこととなるとおちおちと遊んでいるようでは務まらない。

彼奴らが憎くてゲーマーの座から引き落としたくては子供の頃から自分たちで臨んできた周辺産業の手続きに則り、その核であるゲームでの勝負に勝たなくてはならない。

もはやジェットコースターの方に乗り換えたい気分である。ごめんねディズニーランド。


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