善の対価

 いきなり表題とは反対になるが、善とは無償のものだという価値観で生きてきた。

 今日は朝からPS2カプエス2をAケン・ダルシム・ベガでプレイした。ケンとダルシムはいいもんだがベガは悪者だ。それは役として決まっていることであって、洞察の余地はない。

 俺はKOF'95で八神庵・如月影二・ハイデルンという悪役を好んだ。土台、他の客から100円玉を巻き上げるわけだから悪の方がハマっているだろうという思想もあったと思う。だから買っても憎まれた。ストIIならリュウケンKOFなら日本チームや餓狼チームに龍虎チームなどが人気があり、負けても人気者はいたし、勝ちながらそっちのが羨ましいこともあった。

 そんな俺はヴァンパイアハンターというカプコンのヴァンパイアの続編でヴァンパイアつまり吸血鬼のデミトリから吸血鬼ハンターのドノヴァンに主人公が変わったタイミングで今度は主役で行こうと意気込んだ。バイト代を店に返す格好で随分と弱いキャラに使った。自分で言うことではないが人気は出た。しかし、今度は悪役で勝つ人を羨んだ。

 格闘ゲーム界のお節介焼きとして、店で遊んでいて他のお客さんとの勝負は接客業か習い事のようなもので、コンボを教えて練習に付き合ったり、攻略法を議論したり、そういう風に生活していた。善意のつもりはあったが、しかし考えてみると100円玉は払ってもらえたのでお客さんの方が善かもしれない。善意の輪を模したごっこ遊びだったのだろう。

 考えてみると、ギター教室などの習い事も善か悪かは判じ難い。ギターを楽器屋で買うのは等価交換か多少の儲けはあるにせよ、道具の使い方や音楽という固形を持たないことを習う。水泳教室でも書道でもそろばんでも同じことかもしれない。特に俺は義務教育の学校でも先生は公務員であると論じてきた。そこにあるのは善悪の二元論ではなく、教える善意と生活のための対価のバランスであって、安くて上手に教えてくれりゃ良い先生、下手で高けりゃ悪い先生なのは分かる。それがもしタダだったら。昨今のYouTube教室などは電気代だけで回っている。

 もともと、狩猟から濃厚に時代が変わって退屈が生まれて文化が発展した。そして長い平和は文化の発展を生み、日本でも高度成長期に伴う上流階級の文化度は令和の今より高く見えるほどである。文化芸術にお金や時間がたくさん使われたからだ。

 昨今では芸術品も経済社会の中で売買の対象となっている。そのため営利を目的として商業芸術が生産される。カプコン社のゲームもその例外ではないだろう。ただ、その営利の範囲の中で賃金労働ではあるものの値段以上の仕事というか、高付加価値を目指しているかみたいなところで、ストリートファイターIIやヴァンパイアは群を抜いていたと思う。子供ながらに熱狂した。その裏で取られた100円玉はあるわけだし、そのために家族に迷惑もかけた。その意味では悪だ。

 その反省から、今では家庭用ゲーム機を買って家のテレビで遊ぶことを推奨している。その中でお稽古事としてのゲーセン対戦に主観的に存在した「上手くなることは面白くなる良いことである」という思想は失われた。ギターとは違うが、それでも呼び水となる遊び方を教えてもらわないと楽しく遊べないゲームではないかという心配はある。

 先にも書いたように偽善だとは思う。お金は生活に欠かせないもので、もし趣味に払われる対価が浮いているなら、それは玉突きで考えると別に何処かから取ったお金であるわけだから、もらっていい不要のお金なんてのはこの世には無いとも考えられる。

 そしてこのブログも無料で読めるが、電気代はかかるしより楽しんで読もうとするとゲーム機を買って試したくなるようにゲーム中のファクトがあってこその分筆なのだ。ゲームセンターという場所もファクトにはなり得るが、試合の成り行きとその中にある読み合いというのは客観視の難しい問題である。

 つまり、本で読んだ読み合いの物語の中でものを考えて消費することに幸福を感じる人を騙している。ああ、俺の善意は生まれ持っての商売で、外堀からあぶり出すと悪意的なのだろうな。親から無償でもらえたお小遣いに立脚した考え方が自分でお金を稼がなくてはいけなくなっても簡単には改まらなかった。給料生活者サラリーマンというのはそういう仕事なのだ。


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