「良かれと思って」は実存するという話

 先のエントリで善悪と貧富について触れた。

 まあ、世の中金儲けは悪いことだとする向きはあるが貧しい人より金持ちの方がいい人は多い気もする。他の人に気を向けるだけの余裕があるということだろう。献身という言葉もある。献身とは他の人のために自らの身を捧げて働くということだ。

 ところで、貧富は客観的に家や持ち物で計れるが、世の中には立派な家に住んでいるようで貧しい人というのは多い。何故かというとローンと言って割賦の借金で家を買って前借りで立派な家に住んでいるものの借金の返済のために家から外に働きに行く人がいるからだ。見かけの財産と背負っている借金や財布のお金と銀行に預けているお金などの差で、どんな人がどのくらいお金持ちかというのは表層的には分からないのが現代である。帳簿上で、はちょっと古いか、電子計算機上で個人の資産が動く時代ではある。

 では、そうした貧富は客観的に実存するという上で話をしたら「善悪というのは虚構ではないのか?」という疑問を持つ人がいる。確かに目には見えないし、客観的に見えるのは行動だけである。ただ、誰しも「嬉しい」とか「可哀想」とか「憎たらしい」という感情を持ったことはあるのではなかろうか。してもらって嬉しかったからお返しするとか、可哀想だから手助けする、こういう行動原理は善である。憎たらしから仕返しする、これは正義感という善意の皮を被った悪であろう。しかし事が裁判となると中立の裁判官による公平な正義の裁きとなる。行為を悪であるとみなし目には目をで罰を与えて世の中から悪を排除しようという考えだ。

 だが、現代社会は善意の皮を被ったセールスつまりお商売があるもので、人が良さそうだと信じたら騙されたというような話も後を絶たない。これが善意が実存としてあっても客観的に善意に見えるように振舞って悪事を成し、そういう世の中だから行動とか表情と振る舞いで善意かどうかを測るのは難しく、その果てに善意の実存すら疑われるという末法の世である。

 それでも信じたいのは人の根に「良かれと思って」という善意がわくということだろう。悪いことは後ろめたいものだ。もちろん、色々な人がいるので「人の不幸は蜜の味」という風に根っから憎しみや嫉妬で性格が出来ていて、俺が思う普通の人とは反対の感覚で幸福感を得るという人がいるのかもしれない。若い頃はどう考えても分からなかったが、生まれ育ちの関係で行動と報酬系がどう考えても自分たちとは逆さまなのである。

 そうすると、信じたいというのは甘くて、罰して正すべきなのだろう。善意を持つことを前提とするならばだ。だが、罰して正すだけがやり方ではなく、報酬系が反対ならばその性質を逆手に取って操る術もまたあるのかもしれない。古代から人は自然の性質を理解して草木や動物を人間生活に利用してきた。害ならば駆逐したいという正義感が以前は強かったが、それは主観的に被害を被ったというか、恩を仇で返された程度のことで、魚釣りをしていたら餌だけ食われて逃げられるのは世の常。

 それはつまり良かれと思ってすることが見返りを期待しているのなら真の善とは言えず、返って来なかったり反対のことをされたりすることもまたあり得るという広い前庭に立って、それでも良かれと思ってする行為が愛だと分かってきた。

 客観視できない以上は善悪は虚構のような概念だと片付けることも出来るが、少なくとも良かれと思っての動機でことを成したことがある以上は自分の心に善意は実存する。それは行為として誰かに認識されないと存在が認められないというようなものではなく、自分の気持ちなのだ。他者からそういう行いを受けたことがなく、自分でもしたことがないという人も世の中にはいるかもしれないし、それは気付いていないだけだという気もするが、虚構だと思われてしまうのは甚だ残念である。それが貧しさという実存なのかもしれない。


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