「無知の知」のパラドックス

 哲学の初歩で俺が奈良学園高校の時に倫理で始めに習ったこと。

 それはソクラテスの「無知の知」である。ギリシャでものを教えている知識人を捕まえて教えを聞き「それは何故か」と問いただす。答えた説明にも「それは何故か」と問う。これを繰り返すと誰しもが最後には何故か答えられなくなり、そうなるのであれば究極的に物事は分かっていないという「無知」を知ることである。

 これは学問をする上では初歩的なことであり、高校でも1時間で終わって次の哲学に流される。ところでそうしたソクラテス自身も忌み嫌われ流刑になったエピソードもある。

 普通の人はそれをそこまで考えないのか、あるいは学者をしながらも常に自らの無知を知った上で謙虚であるのか、あるいは無知の知を知らずに高慢であるのかは分からない。

 ただ、このロジックを長いこと考えてコンピュータ科学や論理学に人工知能などしていると、少なくともソクラテスの問答に於いても「何故か」とか「それは何か」という疑問系のアスクについてギリシャではどういったか知らないが和訳されても話として充分にわかる「問い」と「答え」の関係性で対話が成立している事に着目したい。

 考えてみて欲しいのだが「宇宙は何故あるか」とか「光が何であるか」とか「電子より細かいものは」とかが分からなくても物理学の体系自体は脈絡として存在して、究極的にはわからないことがありながらも人が認識する事案の中に客観視して自分とは別人が自分と同じように見える聞こえる触れられる現象を再体験出来るに至る充分な知見が広がっている事は間違いない。

 つまり結局何も知らないのではなく認識と現象と問いかけと答えを取り巻く会話は最後には行き詰まるとしても脈絡としては存在していて、行き止まりがあるからそれは無であるという事はなく迷路というか理路、理路整然の理路が存在する。

 ところで何故それがギリシャで行われソクラテスが流刑になったかというとギリシャがポリスで今でいう都会であり、都会で学問をするというのが都会生まれの何代目だからで田舎者からしたら分からないことや不思議なことはあって当然であり都会の学者が答えに詰まると商売あがったりであったからだろうとは想像出来る。俺も読書を基本に座学で高校に行ったので高校の時はそんな感じであった。

 不思議なもので、俺のこの文章が誰にも分からないチンプンカンプンなものと捉えられるか共感を得られるかは分からないが、答えに行き詰まっても脈絡は残るという考え方は外国語的にどうであるかの問題を孕みつつも日本人的な感性によるもの、事実ありきではなく共感ありきの日本語だから成り立つ文法であるとは思うな。

 日本語は多様な文化の影響を受けて外国語を意味はさておき音をそのまま記せるカナ文字で取り入れてきたため、多少の知らない言葉があってもそのまま会話を成立させられる魔法の言葉だ。それでもって、ギリシャ時代からの問いであった無知の知による質問攻めに循環論法による永遠の逃げ道が出来たと俺は喜んでいる。

 まあ、ソクラテスの論法で「それは何故か」と言われたら「何故って何?」と聞き返せばソクラテスも困ってしまうことだろう。少なくとも「何故」の意味が分かれば哲学は前進する。


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