人の意見を総合すると薬師寺を燃やす事は兵隊の命より厳罰になる

 今度書店に行ったら三島由紀夫金閣寺を手に取ろうと思っている。近所の書店にもあるが古本だともっと安いだろうとついでの用事が出来るまで購入を先延ばしにしていた。

 以前に米国の学校での銃の乱射事件が報道されていたが、ふと自分が低学年の時の運動会の徒競走で、ドベで転んで会場じゅうから笑われたようなそんな記憶かもうそうか、笑われたかどうかまで、転んだかどうかまで、ハッキリとは覚えていない忘れたようなことが心の根っこにあって、成績優秀でも体育はダメの典型的なデブのボンちゃんだった俺が当時に戻って泣いている子供の頃の自分を守って笑っている運動場の人間全員機関銃か何かで掃射したいと思ったら、キチガイに思える犯人像見たいのがそんなに共感できない話ではなくなる。

 しかし時すでに遅く、運動会は35年前とかなので、今からできることを考えると、台所の包丁を持って誰かを指すとすると誰を刺すか。俺が王様でも愚民をひとり剣で裁けば殺人として平等に裁かれて監獄に入るだろう。それは損だと思う。もっと、殺すなら大勢がいい気はする。だがそんな殺意はすぐに冷める。例えば近所の薬師寺五重塔にガソリンを撒いて焼いたらどうか。警備は手薄だろうか、親友経路はどうかなどと考え、そう、三島由紀夫はおそらくそんな空想を小説の題材として企画した過去の作家なのだろうな。多分今にするとつまらないだろうが。

 おかしな話な気がする。人命は何よりも尊いと言われながらも、国民の財産を守るために戦争は行われて兵隊が死ぬ。その守られている公共財産のひとつに薬師寺も含まれるだろう。薬師寺にお勤めのお坊さんもいるだろうし、全然違うかもだけど大学というのもそういう立派な建物と通う人で成される聖堂のようなものと考えることも出来る。かなりぼかした類推だ。

 そこまで考えると、薬師寺を焼いても俺が得るものはなく、焼いたらどうなると妄想する狂った時間だけが楽しみだったのかもしれない。兵隊にならずに済んだのだから、むしろクーデターが起こらない原因とか、ギリギリ守られている平和な今の暮らしを奇跡だと思った。


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