精神薄弱とマクドのメニュー

 まあ、何でもかんでも病気のせいはいかんとパラスポーツとか見ると思うんですけど、現代の精神科みたく難し病名がいっぱい分類される前は「精神薄弱」などと呼ばれてたんです。

 自己責任論で色々考えても、格闘ゲームの対戦には相手との意志の掛け合わせで、意思決定としてボタンをひとつ押すだけなんですけど、そこに相手がスーパーコンボのコマンドを入れていたら、ピカーンと光って体力が半分減る。これはもともとストII系ゲームが研究されて実力が出るようになったから、弱者救済措置として入った要素なんですけど、それすらもだんだん研究されて打ち所に対する議論が深くなり、ヒット確認とかの技術も認知された。

 けど、ゲーセンで対戦していると、そういう議論が始まる前というか全く知らない人のぶっ放しで負けることは日常茶飯事でした。連勝していてもちょっとしたことで止められる。連敗もあるし、それはそれで実力だとは思うんですけど、自己責任感が強いと「あそこでボタン押すのは俺の何かが悪かったんだ」という強迫観念に晒されるんです。

 多分、それは相手を侮っているからで、よほどの初心者と舐めていても、コマンド操作は出来ているわけで、中上級者と言ってもそんなに差はない。そんなに差はないことを謙虚に受け止めて、差をつける別の要素を探して練習したらもっと上手くなれるかもしれない。

 ただ、その「俺の何が悪かった」と内向的になった時期があるんです。その前は「ゲームのバランスが悪い」とか「その打ち所は博打だから良くない」とか外に向かって腹を立てて、健康だったんです。どこからか、それらも全て自分の意思決定で処理しなければならないと思うようになったんです。

 そうすると、意志というのはどのように決定されているかという問題に深入りして、例えばゲームに没頭する前に歌手になりたいとか思っていたものも、自分の意思であるかのように思えるし、それを「そんなの無理だよ」と親の意見で曲げられたと解釈したけど、それを我慢したのも意志だし、なりたいという意志すらもテレビ番組の作り方や放送や親がそれを買ってお茶の間で一緒に見たことなど、幼少期から自分が意志だと思っているようなものは全て環境から与えられた情報の蓄積だと考え出したんです。

 そうなってしまうと、例えば大会の場面を思い出して「あそこなしゃがみ強パンチではなく待って小パンチだったなぁ」くらいの後悔を色々と引きずっていたものがなぜ高校でギターをねだれなかった、小学校でファミリーベーシックを買ってもらえなかった、みたいに人生の前半部とか起因したであろう選択全て遡って考えるようになり、ついに最近ではマクドナルドでダブルチーズバーガーを頼むかフィレオフィッシュを頼むか迷った時、そもそもマクドで良かったのかという問題はさておき、エビフィレオとかビッグマックは選択から上手く排除できても、このダブチとフィッシュの二択すら俺の人生に栄養価とお釣り100円差くらいの二者択一を突きつけられており、口からメニューを言った直後でも「やっぱり」と訂正したくなり、しかしそんなところであたふたしたら変な人だと思われるから精神薄弱に見えないように決めたら堂々としていようと気をとりなおすのだけど、やっぱりダブチを頼んだ後もフィレオフィッシュもちょっと食べたい。

 なんか自己責任だとして、堂々と決めているようで、内面がどんどん拗れていくんです。


🄫1999-2023 id:karmen