結局はダブルチーズバーガー

 今日は昼飯をベーコンレタスバーガーにした。大体ダブチなのだが、味に飽きたのとおやつが増えて先月の定期検診で体重が2キロ近く増えていたことなど、というかそれ以前は痩せてきていたのだが、休肝日を作って体操などもしているので、標準体重よりは1割ほど多いが健康になったのかもしれない。

 欲しい本があってアマゾンで買うのに多めのギフト券でチャージしたので、ついつい欲しいものを見てしまう。しかし俺は元来「安物買いの銭失い」と周囲から言われた傾向があり、しかしそう言って非難する町民が俺が店で買うからアルバイト出来ている感謝を忘れたか、俺が貯金して株を買うようになったら証券会社のビルが建て替えで立派になって雑多な店がいくつか閉店した。今やアマゾンはGAFAと言われアメリカの大企業で世界を席巻しているが、そこに簡単にお金を払うのも如何なものかとは思う。

 欲しいものこそ言わないが、勉強のためか趣味の充実で実用品ではないし、趣味の充実と言っても大枚叩くわけではなくチャージのお釣りで前からちょっと欲しかったものを悩む。20代などは本によく騙された。仕事をしながらお金を読書や勉強などの自己投資に当てるのが良いと書いてあるが、それ自体が出版業界の売り上げを循環させているし、株式投資ではなく自己投資というのは結局自己を労働資本として永遠にプロレタリアでいろということなので、その時を経て資産になるものをちゃんと買おうと思った結果、ゲームをビデオにしてYouTubeで広告収入が得られないかとか、ギターを弾けばレコード代が浮くとかせせこましくなった。

 確かにレコードは買わなくなったが、そもそも通信費を毎月払っていて主要な流行歌などは実質無料の時代である。それはラジオやテレビの時代でも実は同じで、暇と金を余しているから流行りと違ったマイナな音楽に興味を持っていたのだ。

 そしてゲームソフトなども、退屈だから欲しくなるのだが、退屈は我慢すれば時は過ぎていく。買ってもなかなか遊ばないが、貯金箱とかお財布とか通帳の中にあるお金をただの数字で捉えて、それよりは少し減っても物にする買い物それ自体がまるで善業であるかに思っていたのが過去で、最近は貯金が善業になっていたのだが、そもそもお金ってモノを買うためにあって、充分貯まっているがせっかく貯めたその額に満足行っているので使うのが惜しい。

 さらに読書や趣味実用になる教養ものゲームとか、謎解きゲームと攻略本のセットなども、その勉強は何のためというと無目的に子供の頃から植え付けられた勉強は良いことだからすればするほど良いみたいな話でしかなく、学んだことをどう生かしたかというと、貯金に算数が生きている程度のことなのだ。旅行も消費に思えるし、本の購入も消費だ。勉強を資産にするのはこのブログ執筆作業なのだが、以前はそう思って書いていても今は趣味である。

 結局、本棚の本を手に取って何ページか読み、メモを取っておやつとも夕食ともつかぬ時間にホットドッグをひとつ食った。お昼がベーコンレタスバーガーで、以前はダブチだったので、体質的にハンバーグ1個分だけ腹が減るのが早まっているだけに思えた。今度はまた今まで通りダブチにしようと思っている。計算した結果の今の暮らしは貯金が増える分だけカネ余りなのだが、それでも家のリフォームなどの大金を考えると、本当に少しづつしか貯まっていない気はする。サラリーマンして住宅ローンなど何のための人生だと思ったが、今の俺も毎日の楽しみがテレビばかりで飽きは来ている。金銭的な自由を将来の安定のためと束縛しているからだろう。だが、よく考えるとおやつに100円から200円くらい使っている計算なので、貯金はほんの少しだが活用していることにはなる。

 新しいゲームも欲しいとは思うが、ゲーム機を起動する前にリモコンを外部にしようとすると今鳴っているテレビ番組も案外捨てたものではない気がするから。DVDもそう。

 そうして、株を持ち株のまま置いておくのと現金にして自己投資に充てるの、本当はどっちが良いのか改めて悩んだ。自己投資と称してお金を使うのが気持ち良くなっているだけで、本当の意味での先行投資として部屋には本が既にたくさんあって読み込むのも勉強だけど、テレビを見ている。

 中学の時にテレビを見ていると注意する先生がいたけど、それでは実験可能な理科と空想のような体系である数学に音と綴りの語学くらいしかわからない。社会科には旅は必要だと思うし、旅して習うことが現実だと信じられるなら、旅より座学が安いけど、テレビの旅番組の方が本とか旅行ガイドより良いに決まっている。

 そのテレビを40インチにして2年近く経つ。大きくなって入ってくる情報が増えて、国会など見ていても質問者のアップに奥の座席のひとりひとりの顔まで見える。そうなって、見るべきものが増えてまだ2年目なのだ。そうすると活字の本で学んだ40年よりも今のデジタル機器で学ぶ毎日はとにかく情報量が多い。

 そう言いながら、俺の発信メディアがこのブログという活字なのだから、ここを改めるべきか。習慣を変えるにはどうすれば良いか。録画設備を補強してゲーム配信を再開するのも検討した。ギターの練習も少しずつだが続けている。その先に何を目指しているのか。

 次のダブルチーズバーガーまで腹が減るまで待っているだけ、というようにも思える。積み重ねの効果は増えてゆくノートとか、速くなる運指とか、コンボが決まるゲームで感じられないわけでもないけど、貯金のペースがこのままでは人生の選択肢がどんどん狭くなる不安もある。お金か能力か、その二者択一ではなく合算とか積算であるなら、その範囲で何ができるか。

 何となくだが、この世の全てのモノに所有権を持っていても目に入るのは一部で、戦争を見て市民デモを見て国会を見た後にホームドラマや歌謡ショーを見られる今の生活はある意味で今までの時代のどんな富豪より視聴覚では満たされていて、そして自己投資とかトレーニングは美意識からのもので、独占に対して創作がわずかばかりの抵抗になり得るだけではないかとも考えた。

 なんでも持っている、なら、まだ無いものを作ってやろう、と。そんな貧乏くさい反骨精神を捨ててしまってあるものに満たされてしまえれば何も問題は無い気もするんだ。

 たとえその先に待っているのが堕落だとしても。それが普通の40代なのかもだが。


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