女の火遊び「私に本気か試したい」ゲーム理論

 又吉直樹の「火花」を読んで印象に残ったのは女が売れない芸人に入れ込むのも結局は「もし当たったら」を見込んでいる計算ではないかという節。物語の流れとかオチとはあまり関係ないかもだけど、そこがやたら他の部分より「だから」の浮いた論理性を感じたんですよね。ミステリィのトリックより犯人の動機に着目して読むようなもの。

 まあそこまで言うと俺の話はしなくていいんですけど、格闘ゲームを頑張れという人、それも俺が最近までしてきたように家でプレステでするのではなく大会巡りみたいなことをして見せろという、そうしないのは何故かと問われるのに強迫観念みたいなものすら感じるんです。

 俺はそう迫られると、交通費とかの諸経費を負担してくれたら、ファイトマネーなどの給料相当の日当はなくても出てもいいですよと言っています。「私に出せと言うんですか?」「応援するというなら基金のようなものでも作ってもらわないと」「そうじゃなくて」「そうじゃないなら、どうと言うんですか。では反対に日曜日に阪神競馬場に電車で行って馬券を1万円分買いなさい。当たったら儲かりますよ。こう言われてあなたは素直に買いに行きますか」「それとこれとは違うでしょう」「確かに少し違います。では馬になれと?」

 心から応援してくれるというのと、何か見返りを求めて条件付きで応援を理由に不利なことを飲まされそうになるのは直感で嗅ぎ分けてしまうんですよね。うちの姉がそういうタイプだから、姉とは渋々を表情に出さないように付き合っていたんですけど、姉みたいに強迫的に俺に迫れば通用すると誤解している人が多いんです。俺には親父しか頼れる人がいなくて、姉に甘えてみようとすると、見事に逆手に取ってくる。男としてそれは甘いとは言われるかもしれませんが、男女平等を掲げて平等ではなく有利を取ろうとする女性を敵視してしまう。

 絵を描いたらブログのアクセスがギュギュッと上がって因果関係があるのかないのか、あったとしてもタダ働きの感じがして。それでも読まれるのは釣り記事、下手な話、負ける話、それからもっと下に格闘ゲームの話があって、格闘ゲームの攻略くらいしか俺に書けるものはないと思って始めたこのブログは実は全然関係ない与太話がもっと読まれているという。

 文筆に関しては、タダ働きの感じは全くないんですよね。タイピング自体気持ちいいのは活字で育った世代が、指を軽く動かすだけで画面に活字が思い通りに出せることが快感で、恐らくストリートファイターで遊ぶのもワープロで遊ぶのもコンピュータを使った遊び方として共通項があるというか。ボタン押すだけで格闘家が動くのも面白いですからね。勝ち負け以前に。

 自分自身がそんなことにお金を使ってきたわけだから、恐らく応援してくれる人もお金を儲けたいとかいうような原始的な理由じゃなくて、もっと拗れたワケの分からないロジックがあって、ほどくのが大変だという話ではあると思うんです。1冊書けるくらい。

 「正義は勝つ!」みたいなもんで、俺の攻略に一定のシンパシーを感じたから、それを描いた人が勝者として認められることで「俺の読んだことは強かった」みたいな承認がもっと欲しいとか、それに対して「ときど」さんは「論理では結局情熱には敵わない」と来たもんだから、論理最強の界隈よりも根性論みたいな落とし所でスポーツ界隈にはそっちが受けても読書家界隈からは不完全燃焼の感があると思うんですよ。

 けど先日NHKで相撲を見ていたら解説の親方が「いやあ、最近の若い人は研究とかいうけどそういうずるっこいのではなく頑張って勝って欲しいですね」という節があって「ああ、研究としては成果が認められているけどスポーツの意義とそれは反するのだろうか」と思ったんですよね。

 確かに大局観で行くとゲームにはギャンブル性があって賭け方ひとつの有利不利だとは思うんですよ。けどカプコンストIIって最初に必殺技がレバーとボタンを組み合わせたコマンド性で「練習して上手くなる」をデジタル的に表現したゲームで、梅原氏の人気も精密な操作が画面のキャラの動きとして「見える」ようにアピールする巧さとかもあると思うんです。

 その意味で俺は「やったことある人の人気」より「活字読む人との対話」で良いと思っていて、ゲームする人は近頃では永久ループにハマっている輪の中のハムスターに思えることもあるけれど、面白いのはそのハムスターにどれほどの「足掻き」があるか。ハムスターを飼って面白がる人が一定数いるわけで、それって結局は話の最初のほうに出した「馬になれ」かと。


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