模写は反則ではないという自分での線引き

 日本国憲法の平等や公平以前にハンブラビ法典の「目には目を」がある。ふたつは全然違うことだが、平等は英語にするとイコーリティでイコールとは数学で使う「同じ」ということ。ある人の成した行為が法典に則っているかどうかが法の下の平等で、相手のやったことは自分もやっていいと解釈するのは間違いなのだが。

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 この画像は漫画の教科書の1枚。写真に撮るのは著作権法に抵触するかも。

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 これはその上に紙を乗せて線を引いたもの。トレースという手法。これをアウトと見做す人が結構いるよね。

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 それで、この絵はお手本を横に置いて見ながら描いた絵。俺はこれはセーフと思う。

 しかし、絵が上手くなるとはどういうことかというと、写実画のゴールは写真にあるという意味で、グリッドを引いたりして完璧に模写するとなぞったことと同じになるはずだ。そうすると、写しきれない差のある絵であることこそがオリジナリティということになり、模写も上手くなった暁には贋作となるのではないだろうかと言うのがひとつめの論点。

 そこに自分の取る線やペンの使い方に特徴をもたせて、自分の絵としてしまうのが次の目標となる。しかし、世の中そうそう画風が色々と生み出されるはずもなく、多くを学んで逸脱した絵を確立するまでは真似か、真似のつもりはなくても二番煎じになるものだろう。

 さらに、そこで二番煎じがダメなら科学的な再現というのはつまり二番煎じなので、論理的実証的でも最初にことを起こすというのは多かれ少なかれ当てずっぽうの要素があるのではないかということ。真似ないで思い切って線を引く。その直感の中には自分の記憶や体験があるだろうから、真っ白では俺は何も引けないと考える。つまり人の記憶の中に隠匿すればそれが想像となるかということが論点になる。

 こんなことを考えてしまうのは人の考えをコンピュータのアイオーと同視している部分はあると思う。

 そして俺がこんなことに頭を悩ますのは、ゲームの絵やマンガで上手い絵を見せたのを妬まれ、盗作の濡れ衣を着せられる、そうしないと気が済まない人との戦いに疲れているところがあるんだと思う。「写したのか!」「なぞったのか!」吐けと言わんばかりに強迫されるのである。吐くとすると「見て描いた。模写したのだ」ということになるのだが、それでも妬む人は堪忍しない。

 そうしたもんかね、というのをブログにぶちまけてみて、スルーされていくなら今後もこのヒラタリョウ的な画風を手本に描いていくと思う。まあ俺が絵を描き始めたのヒラタリョウ氏のデビュー以前からなんだけどな。ただ手本にしたいと思う絵と出会ったわけだし、俺の絵は俺の絵だとも思う。


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