手帳を変えて半年以上経過したわけだが

 おととしはルーズリーフ型の皮の手帳をメモとして、何か思いついた時に雑多に書き込んだ。これが案外と良かったので勉強法の本で読んだ通り、スケジュール帳を付けて何もない日は日記とするという運用をしてみた。これも良かったので、今度は升が大きく週に1ページの事由欄がある大きめのスケジュール帳としたのだが。

 10月から3月の終わりまでで半年運用して、さて読み返すとなると情報量が多くなりすぎてさながら本でも読んで読み探すような感覚になった。

 実はこのブログもそうで、最初はコンテンツツリーを持った格闘ゲームの攻略ホームページだったものが格闘ゲーム仲間とのコミュニケーションノートのようにゲームそっちのけで日記をウェブで交換するようになり、BLOGという言葉が出来て商用サービスも開始され、それに乗っかって今では広告収入型のビジネスモデルの一角一端を担っているわけだが、商用に成ってから儲けのために自分用のメモとしてではなくいわゆる釣り記事を書くようになって、それらが日付形式で並んで混濁し、読めたものではなくなってしまった。

 ここいらで整理と言っても、俺の主観では過去ログは既にゴミの山である。渋沢龍彦の本のあとがきに「若筆ながら若さゆえの良さもあるのでそのまま刊行した」みたいな表現がかっこよく思えて、若いうちから書こうとしたが若いのはともかく不勉強ゆえ至らない点はつまり歴史などを学んでいる人間からは当たり前のことであることを、経験からトレースして体現してしまった記録などとなっているので、史書ほどの価値が無い本当のバカブログになったこと。

 ただ、乱読のうちに田中芳樹銀河英雄伝説で歴史を重んじる宇宙帝国軍のダゴンの殲滅という歴史をなぞらえた作戦を愚考と断じてこのままでは負けると動いた独裁者ラインハルトと歴史的には負ける側だった筈が良策で食い下がり引き分けにしたヤンウェンリーとの初戦で「歴史は大事だがそれは再現のためにあるのではなく、同一局面が来た時に手を変えるためにある」というヘボ将棋指しながらの思想があったことも考えに組み込んで欲しい。

 5Gスマートフォン時代が来ているが、若者のニーズの多くが友達とのつながりにあり、例えば戦時下で郵便靴が検閲にかかったようにIT企業がスマホ通信を管理したとして、そのほとんどが他愛のない連絡であろうという視座に立った。恐ろしい企てと作家の創作がどれほど違うだろうとも考える。若手作家が審査員の通読を受けて、新人賞が決まるその過程で、逸脱した才能というのが統計的に少ないのは今も昔も恐らくそんなには変わらなく、また犯罪を追いかける警察と新しい手口とのイタチごっこもまた労働者と独占階級の間の中間層での取り合いゲームにも思える。

 先日俺の買った本が書店からもう一冊注文されているのを店主から教えてもらい、ものを盗まれまいと用心して過ごしていると、せいぜい同じものが複製されて他者の手に渡るそのことが昔は許せなかったが、今では自分のものが減るよりはマシだと受け入れられる。そして私欲のためのものが複製されると嫌な感じがするのだが、公益性のために買ったものが複製されるなら、それはもっとガンガンやってちょうだいという風になる。

 昼飯を外に食べに行って、俺は空いている店でひとりで食べる独占状態が好きだったのだが、Googleマップのスタッフになってから自分の行く店を紹介したために自分が行くと誰かの後ろに並ぶことになるということを経験するようになった。それに不快感を感じることがただただ間抜けな話ではあるが、店が繁盛して美味しくなったりサービスが良くなったり、寂れた街で食べるところも無くなるよりは年寄りが多いとはいえ人に囲まれることに対する抵抗感みたいなものが俺の幸福感と擦り合わせて改めるところかなとは思っている。

 どうしたって少子高齢化社会なのだから、人が多くなると若い人との出会いより年寄りとの付き合いになるというところが分かっていなかったのだ。テレビお断りの隠れ家飲食店みたいなものの真価が分かってきたところだ。それが最近の現実かな。


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