知識の交配

 本棚を整理しているとトルストイの人生論が出てきた。かったるくて読めなかったから内容は覚えてないし、もしかしたら目を通したかもだがやっぱり覚えていない。読んで記憶に残った本から処分しているのでどうしても難読のものが残る。もういちど開いて目を通すと、トルストイの人生論が始まる前に数学者パスカルの引用が付いている。もちろん和訳されている。人間は弱い葦である。しかしそれは考える葦である。それから半ページ続く。それを読んだ。

 高校の倫理の先生が卒業アルバムに残した言葉がパスカルの引用で「人間は考える葦である」だった。そうして本棚には他に森博嗣のエッセイなどがあるが、森博嗣の飼い犬の名前がパスカルだったと記憶している。また「有限と微笑のパン」の引用が中谷宇吉郎の「科学の方法」で、つい先日それが狙ったかどうかはともかく、別の有名な数学者の著書の和訳をもじったものではないかという結論に達し、古本を探したところである。昔のように本屋巡りをしなくてもアマゾンで注文できるのだが、絶版で綺麗で読めそうなものは当時の定価より高い。

 そうすると、読書を重ねるごとに何度も引用で目にする交差点のような言葉がある。過去にはそれは哲学書であり、ある時から数学書になり、近代では科学史か論文になる。

 それでも、そんなものを読むよりスマホで遊ぶ方が現代的なのだろうが、ふとそういう古典的な引用をたどる方式で過ぎ去ったものを拾ってみたくなった。人間が考えることというのは産声から聞きづてに読み上げに思いつきに言い訳や嘘なのであるが、論理とか科学を学ぶものの中で合意があるなら、考えというのも考え方が同じになり、それを時代の先まで推し進める中でいちど分岐したものがまた同じところに交差するのも必然に思える。

 本に記されている引用が交差点だとすると、歴史の深いところから辿るか、近現代から遡って考えるかしても、どのみち交配して一緒になるところがある。当然のようだが、図書館にある本の量などを考えると、迷路の中で迷子になってばったり出会うのは奇跡のようでもある。

 他の考え方をすると、読書好きの観光名所にカメラを持った観光客が大勢いて「お前も来たか」と団体さんになったかのような気分もする。ただ、道標というには本は複雑すぎて、偽物の迷路の地図のようにも感じることはある。真実という宝を探すゲームを楽しむための地図が地下鉄のように理路整然としていたら、ちょっとつまらないと思う人がヒントを出すのだろう。意地悪ばかりでも親切ばかりでもない、普通の人間が本を残して去っていくのだ。


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