毒と薬の論理学

 日本語の化学は科学と同音異義語である。英語にしてみるとケミストリーとサイエンス。中世のヨーロッパで鉄と薬を混ぜ合わせて金を作る錬金術が研究されたらしい。その錬金術アルケミスト達は金を作る目的は達成出来なかった。残ったものがケミストリー。近代の化学らしい。

 化学兵器というと毒ガスのことを指す。毒は人を殺めるものだ。通常、学校では化学を医学のために学ぶ。では化学物質が毒か薬か如何様に決まるのであろうか。

 毒と薬は対義語のようであるが、致死量という言葉があり同じ物質でも少量では薬であり多量になると毒になるというケースがあるようだ。病気に対する薬であり、薬と毒は対義語ではないかもしれない。

 古来人は病を恐れ、治すために様々の食物を試した。その中で食べて治ったものが薬で、ひどくなったり死んだりしたものが毒なのだ。つまり毒だから食べると死んだのではなく、食べると死んだ。だから毒なのだろう。

 論理的には食べると死んだものが毒なら、その毒を食べると死ぬということは逆になる。待遇は必ず真であるから毒でないなら食べても死なない。食べてみないと毒であるかどうかわからないのに食べてみずに論理的に「毒でない」を導くことは出来ない。

 つまり命題である「ある食物は毒でない」は食べさせて他人に試した経験の総体であろう。毒を食べたものは死ぬのであれば、生き残っているのは毒を食べなかったものである。

 目的の金は作れなかった錬金術師であるが、薬の知識は残ったらしい。

 ここで戦争で化学兵器を使うのに反対の立場を取る人道主義において傷ついたものは薬で治すわけだが、兵隊を薬で治すなら治った兵隊がまた敵を殺めるかもしれない。この連鎖において死は生命の終わりで個人の人生の意味の終わりであるが、薬で治って戦うなら生命は取り留めて意味は続くことになる。平和とは戦争の対義語であり、戦争があるから平和という対義語が出来るのである。

 戦時下に平和を祈る。だが、互いに屈することの出来ない事情があるのだろう。科学の平和利用というのはつまるところ、兵隊を薬で治すという段階の意味でしかなく、では治った兵隊が敵を倒しに戦地に赴くという段に入るとなると、仇討ちは辛抱させるという事しか出来ないだろう。火に油を注ぐとさらに良く燃える。

 俺はロシアとウクライナの戦争は始まった時からロシアの味方でウクライナが降参すればすぐに事は済むのではないかと考えてきた。それを許さないのが西欧と米国である。つまり西欧諸国からの人道支援というと、すぐ終わるはずの戦争のだめ押しだと俺は考える。

 そこまで分かって政府もウクライナを押すとなると、これは人道の皮を被った殺人だ。国際的なルールでは領地を犯したロシアが悪いということになる。生き残るのはどっちだろう。

 毒だから食べると死んだのではなく、食べると死んだから毒なのだ。果たして正義や人道とは毒か薬かどちらなのだろうな。


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