克己復礼

 西暦2022年ということでキリストが生まれてから2000年以上経つわけだが、キリスト教が国教として敷かれた中世ヨーロッパにおいてドイツのニーチェキリスト教を奴隷道徳と批判して貴族道徳を打ち立てようとした。

 俺もわりかしその考え方に影響を受けて、仏教もキリスト教も結局は奴隷道徳であるから信心深く守る必要などない、という立場をいちど取るのだが、そのために普通の感性を失い友達と会話がかみ合わなくなり喧嘩して孤独感を味わったり、経済を回すのではなくお金を貯めちゃえばいいと貯金して株式の口座を作って株を買い、そしてそれをまた現金にするときに証券会社の人が「どうか今は売らないで下さい」と懇願するのを「お金がいるんです」と切り捨てたのはつまり俺の主権で法的には問題はないのだが、他にも儲かっているらしいと聞きつけて昔に喧嘩別れした同級生が「金貸してほしいねん」と電話してきたのを着信拒否した。

 そうして交友関係を少なくしてひとりの部屋でテレビを見たり本を読んだりして食事は全て外食か弁当屋またはインスタントという暮らしなのだが、それで政治家なら民主主義がそれを許さず選挙で負かせばいいという話だが、俺の場合は周りの人が困った顔を見せる。金のせいというかものぐさのせいなのだが、戦争とか円安の遠因の片棒を担いでいるかもしれない。

 過去には株で儲けまくったホリエモンが逮捕されたが、俺も捕まりはしないが市民からルール違反ではないかという勘ぐりを受け、ちょっと話は変わるが自由経済競争はルールの上に成り立ち、スポーツでの勝敗にもプロつまり奴隷と趣味でやる貴族がいたとして、貴族がルールを破って勝ってしまったら、それはスポーツの体を取っても主権による打ち首と同じことで、公平なルールを守った上で自己を高めるためのスポーツということになると、貴族道徳でも結局のところ頭脳プレーより辛い練習や仲間との協力が必要で、そうなると内因的には貴族から出発してもやるべきことは奴隷と等しくなり、克己を達成する頃には立派な人なのだ。

 そうするとブッダがいかに悪魔に打ち勝ったかという話とか、論語の克己復礼と同じことが言えて、インドの歴史とか中国の歴史の長さに嘘がないなら、やはり歴史が長いと細かい違いはあれ貴族と群衆と宗教の織りなすところとか目指すべきところは似てくるのだなと思った。

 まあ簡単に言えば政治家や金持ちのわがままから出発しても貧乏の我慢から始めても広く敷かれた民のルールを全部守ればやっていることは同じになるという当たり前の話。

 そうすると、お金をいっぱい持っても他の民衆が見張って噂を立てる以上は政治家が選挙で下されるように自由経済競争での勝者も不買運動とかストライキなどの対抗手段はあり、今それでいちばん槍玉に上がっているのがロシアとウクライナや西欧諸国のルールをめぐるやりとりだろう。

 あと指摘されるのはお行儀かなぁ。大阪では生きていけても奈良や京都の高級店に入りづらいのとかはその辺。ただお金を使うって言ってもマクドナルドでダブル肉厚ビーフにポテトMくらいでしんどいくらいお腹いっぱいの人なので、栄養の少ないおやつとか高級食材とか珍味とかになってくると、そろそろお行儀は大丈夫ですかという話になる。

 特にナイフとフォークだと上手く出来てもお箸の使い方でダメなところが色々と。子供の時にいちど婆さんから躾けられたが、仏教とかを破ると決めた時から親のしつけやお行儀も全部破って生きてきたことを周りの人から改めて指摘されている感じがする。

 まあ、もっと日本語で簡単に言うと「親しき中にも礼儀あり」で世界中家族になったら身分や行儀はなくなるかというテーマを考えると、偉い人の前だからということはなくお家でも行儀よくという話になってくるのかなという気はするよな。綺麗に食べる、みたいな。食卓を囲む上での作法やマナーは身分制がなくなっても庶民階級まで浸透しているって話か。

 グローバル化で失ってしまった日本の礼儀みたいのもあるんだがな。取り戻せるかなぁ。


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