言葉のパズル「もじぴったん」

 知育玩具は役に立つのか?そもそも玩具は暇をつぶすためのもので、遊ぶ暇があるということは多かれ少なかれ金持ちなのである。ファミコンブームは高度成長期の余波で日本中に暇で金もある中産階級の子供がいたということだろう。

 対して「勉強をする」というのと「勉強になる」というのではニュアンスが違い、高すぎる買い物などをしてしまった時に人は「勉強になった」と言う。ちなみに「もっと勉強してください」とか「もう少し勉強させていただきます」と言うと値下げを意味する。

 その意味で、ナムコ社(現バンダイナムコゲームス)が作った「もじぴったん」であるが小売業社がめちゃめちゃ勉強してくれたので、俺の手元にあるのである。

 果たしてゲームで勉強になるとは如何なものかというと、基本的にゲームに負けて次に勝つために考え方を改めるというところが頭の使いどころであろう。罠があってそれを覚えて避けるだけのゲームを「覚えゲー」というが、クイズゲームを「覚えゲー」にしてしまうのは何かが間違っている気がする。その意味でクロスワードパズルの日本語版と言う意味で「もじぴったん」は新しかったが、どうして負けるかというと、嵌める言葉のピースや制限時間に厳しい制約があり、自由に遊んで賢くなるものを想像していたら、それとはちょっと違う。

 44歳で知育玩具というのは今更感が半端ではないが、お稽古事を始める感覚で楽しいばかりのゲームにも飽きたし、ためになりそうなものを選んで負けてみるのも一興かと。

 携帯電話マークのドット絵に「おかけになったでんわばんごうはげんざいつかわれておりません」を並べ替えて逆さまからピースに嵌めていく面をまだ攻略できないのだが、昔に遊んだ時よりはその他の面をスイスイ解けて、このゲームは子供向けを狙っているけど発売当時から楽しそうに遊んでいたのは暇そうな大人だった記憶がある。

 「なんで?面白いのに」と言われたことがずっと引っかかっていたが、いつの間にか「もじぴったん」を楽しむ余裕が出来たのだな。その意味で知育玩具は子供向けのようで「勉強になる」というキーワードに弱いのは辛い言い方をすると勉強の嫌な大人がゲームをする言い訳で、信長の野望三国志が歴史の勉強になると子供にさせようとして飽きられて親が子供を学校に行かせてから家で遊んでいる、みたいな話と似たものを感じる。

 その意味で、DSのもうひとつのスロットには遊戯王が差さっているが、これも年食った割に小遣いの勘定がケチになってコンピュータを倒してポイントを貯めてパックを開けるのが安価に楽しめると喜んでいるのだが、実物カードゲーマーからすると現金で強いカードを選んで買う方が手っ取り早くて面白いということになる。地元の貧乏な商店街では俺のことを「そういうお前こそ海馬瀬人キャラだろ」と扱うわけだが、俺は案外とケチで日本選手権とかプロツアーになると俺の100倍くらいエグい金の使い方をする界隈と出会い、そのまま彼らがテナントを借りて店を始めたところでお客さんとして遊びながら俺自身はサラリーマンをしていたわけだが、それらの店が閉店に追い込まれて俺が安定したかというと俺も病気や雇い止めの羽目に遭っているので、みんなが店を持ち始めた時にプレステの遊戯王で遊んで家で杏露酒を水道水で割って飲んでいた先輩がいちばん賢かったかもしれないと今では思う。

 子供にお小遣いとか新しいものを選ぶ権利を与えたら、どんどん享楽的な方向に行くだろう。その中で人生について楽しいものだという感覚を子供なりにも感じたら、それが楽しんで生きる力になって自殺とかしないようになるかもしれない。俺も病気で薬飲んでるけど、まあまあ楽しんで生かされるバランス感覚は戻ってきたと思う。過去のそれとは違っても。

 ふと杏露酒を水道水で割ったら缶チューハイより安いのか気になったところまで。


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