最後に大事なのは喜びをわけあえる愛おしさよ

 年金生活三年目。最初は少なく思えた給付額だけど、それは収入が多かった時の使い方がなかなか治らなかったからで、収入は少ないけど暇はたっぷりあるわけで、例えばゲームひとつとっても爽快感のあるアクションやシューティングでぱーっと遊ぶのではなく、かったるいRPGとかを選んだり、本も読んですぐ分かりやすい入門書で何かを始めたら、ちょっと難解なものや分厚いものに挑戦しようとして、そうして積読タスクを貯めていくと三年目の今は気が遠くなりそうなほど部屋で出来ることが貯まった。

 「あーん、でもマンネリだよぉ」と思うのであるが、それが俺が小学校5〜6年の中学受験には耐えられても高校三年間の大学受験には耐えられなかった(ってか耐えたけど)志望校も最初はなくて就職するの嫌だからやっぱ大学行こうとなると行ける大学みたいな選択は許されず「お兄ちゃんは国公立」みたいな親のプレッシャーに自分で言い返すだけの文句がなかった。今でもない。

 ただ、何のための勉強かというとゲームのためのコンピュータ、ゲームプログラマーとかグラフィックデザイナになるための専門課程、そうして就職離職はゲーム会社の辛さからの逃避なんだけど、建築とか家電関係に簡単に転職出来て、俺からすると辛い仕事から逃げただけなのが世間から立派にやっているになった時、ふと娯楽だけどゲーム作りを立派にやっているという捉え方はないのかとまた疑問。それで趣味的から売れ線狙いに転向した。

 その中で残ったコンピュータの知識が「結局コンピュータって計算機でしょ」と言われてたのがいつの間にか「今時パソコンよりスマホでしょ」になって、ひどいのなんか「お前コンピュータってゼロとイチで全部出来てるって言ったよな!この便利なスマホも全部ゼロとイチって言うのかよ!時代遅れなんだよ!」とか言われたのを、反論しようとするとメチャメチャ長い話になるから言いかけて辞めてそのままになっている。

 てか確かに計算機理論はゼロとイチなんだけど、電卓でも何ビットも使って実質十進数を扱うためのものだし、スマホの画面もRGB値にすると左上から右下までゼロとイチになるけど、普通の人から見たらそれがセンサの塊であるカメラで撮った画像が画面にドットで出ている、と思うだろう。つまりアイオーを考えた時にゼロとイチは暗黙的な中間データであり、人の利用はタッチとカメラとボイスになる。

 つまり例えると機械の中では歯車は役に立っているけど、歯車だけでは役に立たず、同様にスマホはコンピュータであるというのは暴論で、スマホは全部の機能が備わってやっとオモチャになっている。だから内部にプロセッサやメモリがあってソフトが載っていても、それらはそれだけで役立っているとも言えない。

 そうすると、一見してすぐには役立つように見えない勉強でも、している人で何かの役に立ちながらも世間からは隠されている、そういう物は他にも無数にあって、脚光を浴びるというようなことはどんなジャンルでどれほど小規模であれ、羨ましいことであるのも分かるようになった。

 いやまあ、俺のくだらない話はそれくらいで、今日から第32回世界コンピュータ将棋選手権が開催されていて、一部から直前に「出ないのか?」と迫られたけど、応募締め切りを過ぎていたし「スコボコにされてもうだめぽ」とか「参加料出せない」とか言い逃れて避けたけど、参加者のツイートを見て密かに応援しています。

 てかパソコン時代から既に家でホームページを作ってインターネットにアップしていてもほとんどの人が俺がパソコンでホームページを「見ている」と思っていたし「カーメン」というハンドルネームもゲーマーのヤンキーの兄ちゃんが何かで有名な人を語っているのに「騙されてやっている」というのが彼らの本音で、実はその人だったってことを知っている人などいなかったのかもしれない。服装とか髪型もコロコロ変えるからね。

 髪伸びて散髪いったら別人、季節変わって服買ったら別人。家族も一度は一家離散、友人関係も仕事関係も引越しや転職でバラバラ。そんな俺の唯一の心の癒しがこうして誰宛ともなくネットに書き込んで、誰かが読むということなんだけど、それも最初から今まで通しての読者がいるかどうかも分からない。

 それでも画面と音声で受診したものが不特定多数を相手取っていたとしても「俺宛てかな?」と思える引っ掛かりがあれば、それが今時のコミュニケーションだろう。誰宛てとメールを使うのではなく、メンションもないツイートや動画拡散で遊んでいるわけだからな。


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