ゲームのソムリエ

 令和の時代のゲームプログラマーとしては俺の実力は如何程か。わからない。

 だが、高校の頃は工業科ではなく普通科だったので、大学進学に際し「ゲームクリエイターになりたい」と言っても親も進路指導の先生も困るだけだった。ひとつ、ドラクエプログラマー中村耕一さんが電通大の夜学の出身だと本で読んだことがあって、同じところに行きたいと言うと「夜学ってのは普通の学校じゃなく働いている人が勉強にくるところだよ」と説得され、結局俺はその後フリーターをしてから専門学校に行くのだが。

 そのいつもの長話はちょっとどけると、プログラミングとかが分からないでゲームに携わるどんな仕事がということで、バイトはゲーセン店員だったわけだが、突っ立ちのゲームショップ店員ではなく、料理に合うワインを選ぶソムリエのように人にはそれぞれ合うゲームと合わないゲームがあり、お客さんのことをよく知って1本のゲームで確実に満足してもらえるゲームソムリエのような仕事はできないかと考えたりもしたものだ。

 まあ、若い時の妄想というのは矮小な自己実現力に対して、身勝手に自分の能力を活かせる環境を創造するものである。現実、ワインで例えるとプログラマーをして工場にも勤めてワインでいうならソムリエというよりブドウ農家やワインセラーの方が金持ちじゃないかという気はするし、そういう世界の中でソムリエールというとワインを選ぶという技能よりもワインに合う美味しい料理を作れるシェフのいるレストランでウェイターのように店の雰囲気を盛り上げる役者のような存在がソムリエだと思う。

 少なくとも現代では、ゲームをタイトルでどんな境遇の人にどんなタイトルが合うか、というような売り手の発想ではなく、パズル性や物語性に操作感覚とアニメーションや音声の神合わさり具合と、報酬となり得る映像と音声に、試練となり得る課題など、バラバラにしてから組み立てる作業を通して、そして基本的に作り手に求められる課題は万人受けである。

 そう考えると、人が10人いて8人が面白いと思うゲームが無数にあって、よほど変な人が来ない限り任天堂の新作を与えておけば面白いわけで、現代は料理もワインも調味という科学で美味しい定式があるのだろうと思う。

 ますます、ソムリエとは上流社会の人間を相手に高級感を持ってもらう奇妙な仕事だ。

 その中で、俺はゲームソフトの完成品を無数に持っていて、自作のゲームを何本もライブラリに登録して、自分が遊びたいものくらいは自分で分かるとは思っている。

 ではなぜ苦しいかというと、俺の感性が万人受けとは違うところにあるので、作者としても売り手としても商売としては自分の好きなものを他人と認め分かち合うということが出来ない寂しさなのだ。

 まあ、贅沢に思われて嫌われるのを承知して言うと、みんな万人受けのレッテルで要素が複合して抱き合わされたようなソフトを安売りで与えられて、ひとつの中に面白いと思うところとつまらないと思うところを感じながらも、お金を出して買ったからと辛抱して続けているのだろう。遊ぶと言うのと、ゲームのプログラムで与えられた課題をこなすというのは少し違う。

 ワインに戻すと、グラス1杯サイゼリヤで飲むと100円だから、ソムリエールが付くとなると100倍くらいの値段で買うことになる。ゲーム1本5000円としたらソムリエがつくと100倍になるとして50万円。この試算は少し強引かもしれないが、映画1本1200円くらいの時代で、50万円出して今の自分にぴったりの楽しい体験をしたい!という人がいたとして、有名ゲームメーカーの単位株価格がちょうどその辺なのかなという比較はできる。

 100本自分で買って何度も試遊して自分に合う感覚を探る、という行為が10代の終わりから20代の初めにかけての自分の狂気だったのだろうと振り返るのだ。


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