JFKと船の持ち場に優性と劣性

 まず、俺は学校があってクラスの真ん中あたりにいれば良いというボンクラだった。

 その前には中学受験があって、俺は俺をいつからか普通だと思うようになっていたが、小学校では優等生で公立に進むのが普通と公立は思っている。この普通のギャップは俺は最終学歴は専門卒なのだが、今時の若い人は大卒でも普通だと思っているかもしれない。

 評価の基準になるのは偏差値である。平均点から得点率がどれほど開いているかの指標である偏差値は50が平均値に成る。中央値という考え方もあるようだが、今は置いておく。

 ところで、世の中自由経済競争であり、経済格差とそれとは別に遺伝的な知能や体力の差がある。自由競争では優性が勝つのか、というテーマは逆説的であり、遺伝的な優劣は環境の選択圧に対して敵者が生存するわけだから、生き残ったり死に絶えたりしてみるまではわからないものである。

 ここに自然環境保護と豊作の対立軸がある。自由競争社会に於いても資本家と労働者がいて、資本家的な優性と労働者としての生産性の高さは必ずしも一致しない。どういうことかというと、自然の中では食べられないシダ植物のようなものが根をはる力で繁殖するが、米を始めとする農業は雑草を取り除き、美味しく食べられる穀物類を人為的に繁殖させるものである。実の大きものを残すことで、人間優位に遺伝させる。

 では、労使関係において、労働者は生産性が高くて愚直に働く方が良さそうにも見える。戦争に於いても、ただ生き残るよりは国のために命を捨ててくれる方が太平洋戦争くらいまでは良かったらしい。その意味で、優性と言っても利己的な賢さは被支配階級としては主権者の邪魔になる。それは昔は打ち首だったかもだが、現行法でも死刑はある。殺人とかだ。

 そこまでしなければ、怠けても許されるようでもある。国民として最低限の生活をするために生活保護の制度がある。もしこのまま日本経済が悪化して、非正規雇用が雇い止めに合うと生活保護費が20兆円くらいになるという試算が発表されている。

 ところで、まあ生活保護でも生かしてもらえるならそれでいいという話なら、この話はここまでなのであるが、資本家で優性の極みがJFKであったとしたらそれは暗殺されているわけで、まあだから殺人に対する死刑がある話は先に書いたが、誰でも誰かを殺そうと思えば殺せる世の中なのかもしれないとは思う。その中で、矢面に立つよりは隠居の方を選ぶ資本家もいるわけで。

 だが、日本国を船と見立てると、船長室で何もしていないなら船乗りが彼を殺して良いかという話になると、船頭として何かの役には立っているから船乗りたちもまた船長を生かすのであろう。そういう人は優秀であって欲しい。

 そこまで考えると、普通という目立たなさで打算的に貧しくなって保護を受けるような生き方が私学に進んだ優等生に許されるのか、という俺自身の問題になる。今の俺からすると、この大和郡山市の人間がみな打算的に劣性を取り装い、公立に進んで働いていないようにも見える。皆の方が小学校から既に打算的な劣性を取る狡猾さを持っているなら、知性的にはそちらが優性であって、学校の成績が良いだけで優等生としてリーダーを取らされるのは馬鹿である。

 日本には、どこかそういうところがある。頭は軽いほうが良いとか豚もおだてれりゃ木に登るってやつだ。それでも、初めの方に既に書いたが、生き残ったか死に絶えたかしてみないとこの問題には答えは出ない。だから優生思想というのも稲作のような恣意的な生存戦略であるし、自由平等というのも次世代はともかく現世を楽に生きる生存戦略なのだろう。

 俺は今少なくとも、現世の楽と生体的な遺伝ではない文化的あるいは環境的遺伝とされるミームを残そうとこうして毎日ブログを書いているのかもしれない。

 俺の子供を誰が残すか、決めるのは自由な社会に於いて女性の意思なのだ。もちろん、生体的な課題や、お金や権力をめぐる打算は付きまとうだろう。そういうことを考えるのは既に煩わしくなってきている。どうにでもなれ、という投げやりさを思考で少しずつ丁寧になおすために、こうして社会と生存について書き出してみた。


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