文民統制の落とし穴。原爆はなぜいけないか。

 長崎の原爆記念日の式典で、市長、被爆者、総理のスピーチがあった。その後に学童の合唱やその前か黙祷もあった。子供の頃には黙祷の時にチラッと目を開けて周りを見てみんなうつむいて目を閉じているのを見てもう一度目を閉じたなと思い出しつつ、スピーチに何か論理的なおかしさがないか全部聞いておいてやろうと思って聞いていた。

 原爆がダメで戦争には反対というのは一見正論だが、戦争に反対なら原爆以外の戦車や戦闘機にミサイルなんかも全部ダメなわけで、それらには言及せずとりわけ原発を非難する立場を取る市民は自衛隊によって守られている。その内で原爆だけがダメなのは市民を巻き込んで痛い目を見たからで、つまるところ戦争は兵隊に任せて安全に保たれたいというしたたかさを隠しているのだ。

 俺自身もゲーム業界を目指した割に学校で技官の資格試験があることを知り、ちゃっかり取った。技官というのは日本特有で、だいたい官職は武官か文官である。民主主義というのは市民が政治家を選挙で選ぶということだが、政治の外交に戦争はつきもので、そこは自衛隊が作られて政治家が指揮権を得ている。回りくどいが今は共産圏から自由経済になりたての中国でも古書を紐解けば文治政治武断政治かという対立があり、民主化というと文治政治に寄るという理解をされる。

 じゃあ、戦争は誰が何のためにするのかというと、高市早苗が代読させられたように「国民の生命と財産を守る」つまり兵隊が市民のためにお給料をもらってすることなのである。

 ウクライナとロシアの対立で、核兵器こそ使われなかったが、戦地ではなく居住区への攻撃があった以上、もはや核兵器かそうでないかの線引きは意味が薄く交戦状態になっても市民の安全は保たれるかという問いにはノーが突きつけられている。

 だが、その議論で誰がいちばん得をしているのかというと、得するのは市民だ。それには自分もまた含まれるのだろう。在職中は技官であったわけだから、市民から見ると働かない政治家に見えても少なくとも通勤と業務はやらされていたのだ。

 通勤電車を待つホームで何度レールに飛び込もうという想像がよぎったか。そのストレスは守っているはずの市民から敵視されてもなおこの国で仕事をしていたねじれのせいだろう。

 平和を願う市民が戦争をしない政治家を「働かない」とバッシングするのはねじれなんだ。


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