俺は本当に心から楽しめているか

 いつからか、ずっと我慢をしている。

 或るゲーム(ネタバレ防止)の序盤、主人公は徴兵された軍の指揮下で貧民街の殲滅を強要される。受けると、その実態を知る者から敵に回される。断ると、反逆者として所属していた軍から追われることになる。中立はない。そんなゲームをしないことも出来るが、ふと自分はそういう風に不可避に敵を作られている気がした。

 考えると、罠にはまる以前に就職から選びなおせないかと思うのだが、独占禁止法があり必ず競争相手のいる会社勤めは何も悪いことをしないでも競合商品を駆逐することで販売益を出している。開発力か広告力か営業力か。何かで勝っているのだ。その裏には敵がいるかもだ。

 もともと俺には味方もいなかった。お坊ちゃま育ちでゲームを買って遊ぶ。そして文句をタラタラ言う。その文句はどこにもやりようのないものだったが、飼う以上はお客様ニーズということで誰かから酌み取られ、ゲームはどんどん自分好みで面白いものになっていた。

 だが、俺はゲームを作ってお金を稼ぐという道を選んだ。仲間は一気に増えた。お金も分けてもらえた。ただそれは、作るという建設的な仕事に対する報酬の体こそ取っているが、人の仕事に必要以上に干渉せず、我慢するという消極的な自分を殺す参加だと今では思う。

 同じことはゲーム以外にもたくさん言える。だが、人付き合いだからやっぱ言えない。

 ゲームだけではなく、ものづくりの現場で我を通すために意見して言ったからにはやる。そういう仕事が出来たらいいが、やれる算段がまだつかない。「病気だから」片付けるのではなく病気でも出来る仕事はある以上はその範囲で我を通したい。ただ、薬を飲みながら健康な時と同じだけ我を通して無理で補えると思っていたのが上手く行かず、再起のための信頼もまだ勝ち取れていない。

 少なくとも、自分で手放しで「面白い!」と思えるものを探そうという姿勢すらグラついていた事に改めて気がついたのだ。もっと貪欲に。精神安定剤やタバコや酒より面白いゲームは俺は「ある」に賭ける。

 それはゲームではなく映像ではないかというのも冷静な意見で予告編を見て「面白そう!」と思ったゲームを買ってガッカリするという体験も俺は何度かしている。ゲーム雑誌を読んで、文章で伝わった面白さをゲームで確認するという体験が以前にはあった。

 その辺の面白さの感情はまだ発展途上なんだと思う。既知の面白みを分かるまで試遊する贅沢な仕事を通して、それでも面白いものを求めた時にどんな敵が出来るかとも考える。

 そうなった時に仲間は出来るか、そうなりそうな関係性にどんな伝手を回すか。今あるゲームを楽しんでいるかつての遊び仲間には乗り換えコストの大きい別作品への勧誘は出来ない。

 いるとしたら、これから始める子供のファンをどう獲得するかという当然の戦略になる。

 そうすると「まだやったことないならコレ!」という無数の前例の罠にハマり続ける。

 だから、キャラゲーやシリーズものが雑用で、新規開発というのは隠匿されて秘密裏に進むものであり、大企業経験者と言っても雑用の範囲からは脱出できていなかったのだろうな。


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