香り松茸、味しめじ

 子供は騙されるべくして騙される。体験なくして正しいことを教えることはできないと諦めの念を持ちそうになるが、それでも筆を執る以上は書き記すことを試みるのみ。

 子供の頃に今の食卓で夕食を食べながらテレビを見ていた。母の作った夕食はまずいわけでもないが、毎日のことで飽きていた。そこにテレビで1本2万円ほどする松茸の映像が流れていた。料理もせず、五味の知識もなく、想像の上の松茸は飽き飽きした裕福な日常を払拭する極上の珍味なのだろうという想像がよぎったものだ。

 しかし両親は言う「香り松茸、味しめじと言ってな、松茸なんてそんなに美味しいものではないぞ」俺はそう諭されて、松茸を食える家もあるのに我が家はなんと貧乏なのだろうと嘆かわしく思い「そうやって高いものを我慢させて騙しているのだろう」と言い返してしまった。

 モノの価格が決まるには、品質の良し悪しだけではなく希少性や保存性に運搬コストなど様々の要素があるが、世の中には安いものに高値を付けて人を騙す詐欺のような商売もある。

 俺とてそこまで物知りでもないが、騙された経験と品質とは何かという見極めに於いて、自分で買い物をするときの心構えであるとか選別の考え方がある。親切になって人に伝えたら世の中から詐欺のようなものが無くなって理想郷に近づくということを考えたことがある。

 それでも貧しい人の頭の中はあの食卓でテレビに夢を見た子供時代の自分と同じような、体験が乏しく甘い言葉に夢幻の想像をしてしまう愚かさとも賢さともつかぬ精神の働きをするのだ。

 俺は今の暮らしに至るのに多くの折り合いを付けている。全ての物事を体験したわけではないが、子供の頃には何の意味があるんだろうと疑った勉強でも「確からしい」と信じて学ぶと味の良い体験がもたらされることはある。だが、それは科学や哲学の前進のために疑わしいと思って試みるという方策とは逆進的なのだ。

 これが書物から何かを学び取る時の完全なるパラドックスなのだろう。信じると味の良い情報なのか、読者を筆者は騙そうとしているか。結局のところ、こうして書き記してもどんな文筆の有り様を考えてみても、その逆説から逸脱することはできない。

 そもそも、その損得から疑う必要がある。どう考えても100円を台に投じて損するだけのゲームセンターで、俺の過去の姿や群雄諸氏のようにゲームで勝って皆に囲まれるということがどれほど良い体験だったか、それを想像して100円どころかなけなしの小銭を全てゲーム代にしてしまった「信者」は数え上げたらキリがない。

 ちょっと旨いものを食う、タバコを吸う、酒を飲むなどしてゲームはほどほどにする者もいたが、ゲームにのめり込んでいるものはどんな美食より、女を抱くより、それでも何故か台にかがんでレバーとボタンを構えて画面を見つめて騒音に近い数々のゲーム台からの音の渦の中に身を置くのである。

 それはつまるところ医者に言わせるとドーパミン、アドレナリン過剰分泌というところなのだろうが、客観的に過剰に分泌されるということは平易な満足を上回る脳体験を当人はしているということに他ならない。これは仏道修行などにも「そうなってみたい」と後を追うものは絶たない。

 そう考えると、松茸は詐欺であるなぞというつまらない文筆よりは松茸の香りを「芳醇」だの何のと書き立てて、読者に夢を見せて余ってしまいがちな成金の持ち金を少しづつ取り上げてしまう方が正しいのかもしれんな。


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