有意義な休日であった。朝ドラとMTGと考え事。

 朝ドラの主題歌はバックナンバーである。それだけで夢のようだ。おまけにお母さんは永作博美で娘役というかヒロインの幼少期がまたかわいい。PSTDというかメンヘラ候補生みたいな役作りがな。そういう子を誰かがオーディションで選んだのか演技なのか。子役のことは分からんが演技なら幼く見えても相当なものだと思うのは舐めすぎか。

 MTGは以下のとおりである。 

 このバージョンのひとつ前に白赤青トリコロールにまとめたが、ラノワールの幻想家とテフェリーの徒弟が増えたことにより微妙なバランス変化や趣味や仮想敵の変化にワンパターン化しつつある勝ち方に飽きたことなどが絡んでセラの天使と棍棒トロールを入れることにした。天望の騎士と印章持ちの聖騎士が3枚ずつであったが先兵の精鋭と棍棒トロールで1枚は軽く1枚は重くしてメリハリをつけた。レオニンの空狩人を思い切ってセラの天使にした。多いときはクリーチャー20以上入っていたが、ブラフではなく本当に手札をスペルとした駆け引きを成立させるにはスペルがもうちょっと必要と考え、しかし軽くて良いスペルがそこまで揃わず、18:6:16になった。そんなもん。総じて今まででいちばんプレイの楽しい良いデッキになったと思う。

 没頭から覚めると今日はイベントに参加するか迷ったが、ひとつ人生訓として「やった後悔はやらなかった後悔より悔いが少ないのでどんどん行動すべし」みたいなものを信じていて無鉄砲に場当たり的にチャレンジを繰り返していた時期が俺にはあり、どうしてゲームの大会とかくだらないイベントにどんどん参加してフラれても告白するのだろう、みたいに後輩から聞かれて「やらない後悔よりやった後悔」という話を自慢げに語ったりもしていたのだが、やった後悔がたくさん募って何かひとつでも手にしただろうかと思うと、うちは恐らく曽祖父の代から自営業に見せかけて大家さんなので、あらゆることが家で待っていたら外界から何らかの定額収入が入ってきて親父の格言は「待てば海路の日和あり」で家の中で待って突飛なことを起こさず過ごしてほしいと周囲から願われているということもまた全く別のパラダイムではあるが事実。

 いつからか外界に向かって何かをチャレンジするより内向的になり自分の持ち物で玩具やテレビゲームで遊んでいても家賃収入でお金はどんどん貯まり、振り返れば事を起こすのには何かしらお金がかかり世の中にはイベント企画をして小遣いを稼いでいる人間もいて、経済学者が消費喚起をするように「やった後悔」を高値でコレクションしていただけであることに気が付いたのだろう。イベントはYouTubeで見て不参加とした。

 やらなかった後悔は全くないかというと時々気がかりになることもあるが、そんな時は預金通帳を思えば増えたと思い、そうするとまた日本の老人の多くは若いときに金を使わなかったことを老年期に嘆くみたいな消費喚起のコピーも思い当たるが、先日宅配ピザを頼んで、動かなくても使えるカネの良い使い方をひとつ覚えて、そういうことはまたしたくなったらしようとスーパー弁当で夕食を済ませたりした。

 こうしてパソコンでブログを書く俺の無駄な趣味はデジタルピラミッドみたいなもので、現世でのヒエラルキーエリザベス女王の死とか安倍さんの国葬でひとつの終着点を迎えており、来世に向かってお墓を大きく建てる古代エジプトから脈々と受け継がれる権力者の無いものねだりはついに何もない仮想空間の0と1の中に現実のような社会を形成してその中でもなお権力がどの程度波及するのかバトルになっている。

 それらはもともとキャッシュや証券の電子化で単なる数列であったのだろうが、近年はその数の影響力も飽和状態となり、ほぼ無意味というか無視可能だけど構造的には膨大でありながら緻密という、難儀なことになっている。

 どこから始まったかは知らないが、俺は20代で気づけばコンピュータ技師だった。三権分立というよくわからないジャンケンの中で市民に選挙で負け軍隊には指揮権を持つ行政という良く分からない役どころはつまり日本軍より強い米軍のGHQが決めたから成される実効支配から目を逸らせるための自由であるのだが、まあ役として自由は感じた。だが、自分たちはそもそも何であるのかという根っこの浮いたような気味悪さ。

 今でも思い出せる。毎日出社して会社で寝て定時前に仕事をこなしゲーセンに繰り出して終電まで遊んで飯は外食ばっかりで酒もちゃんと飲む。なにがどうなってこんなことがまかり通っていつまで続くのかと。自分は何者なのかと。

 母親の田舎である農村部では「尻拭き紙にもならない」と言われる紙幣だが、パルプの進化と普及によって、尻拭き紙は紙幣1枚で100ロールくらい買える。その延長かどうかは分からんが、都市部では飯でも酒でも女でも紙幣を渡せば大抵の用事は払った通りに片付いてしまう。それが銀行の機械から束でドバっと出て、その枚数が役職によって約束されている。勝負事で負けようが、その紙切れ1枚出せば無かったことのように許されて、また日を改めると同じようにというか別の勝負ではあるが、挑戦できる。

 その立場は根っこを考えると空虚であることは先に書いたのだが、市街地の人間はそれでもその通貨を得るためにありとあらゆる仕事を現実にこなしている。払い手であるお役人の主義は定まらなくとも、街の中での娯楽は現実のようにも思えるものだ。

 そんなところから、帰ってきた実家というのも恐らくだが旧歓楽街なのである。いちどは本当に寂れかけていたが、最近また居酒屋なり何なりと出来てきている。畑の土に足を付ける地に足の着いた生き方には俺はそんなに憧れは感じない。

 朝ドラの主題も空を飛ぶことであるが、空を飛ぶというよりは宙に浮いたような感じの今の暮らしぶりはそれでもそこそこ満足で気に入っているものだ。若旦那というやつだ。


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