「みんなで楽しく対戦ゲーム」に見た幻想

 俺がゲームのとりこになっていったのはコンピュータゲームそれ自体が独りで遊んで楽しいものだったからである。とりわけ対戦型で人と遊んだほうが面白いと思わせてくれるくらいの人もまたいたのであるが、その人がそうなるに至った過程を考えると、みな孤独をゲームで癒し、独りの時間で醸成されたなにがしかを対戦ゲームの相手に惜しげもなく注いでくれるから、それがぶつかり合って面白い瞬間が生まれるわけである。

 そもそも、こうしてカードを並べて眺めるだけでも楽しいのは1枚ずつ丁寧に絵柄が印刷されていて、ゲームをゲーム足らしめる彩りとて職人さんの仕事によるもので。

 それはコンピュータゲームでもカードゲームでも変わらず、対戦ゲーマーとかデュエリストに感じる魅力はカードやキャラの魅力を服飾のごとく身に纏っていることは虫の出来ない現実である。

 長い紆余曲折の末に、俺も勝ち負け以上に「こういうものを自分としたい」という軸が定まって、キャラ選びやデッキ作りに一定の答えが出るようになってきた。少しずつ「こんなカードがいつか役立つ日が来たら」と思って集めたカードだ。

 既に充分持っている。振り返ると自分が負け役で楽しかったゲームに勝つようになったその克服の過程には意味があったが、ゲームで得をしだしたときから人は離れて行って、利害が一致しない対人関係が成り立たないという自然な摂理が飲み込めず寂しい思いをしてきたことも事実。

 かといって遊び相手の確保のためにお金やモノを与えるという桃太郎作戦にも限界はある。そもそもその黍団子がどこから出てきたものであるかみたいな話になるからだ。

 トレカの強者は少なくともカードという形での財産はたくさんあり、そのほうが強い。持っているほうが持っていないほうに勝つというのも自然な摂理ではある。

 この業界で勝者になり食っていくことを夢に見たこともあるがな。通う圏内の店はみな閉店してしまったわけで、それに俺が勝ってしまったことを理由としてなすられて罪悪感を抱いたこともあったが、ゲーセンにしても家庭用の普及も無視できないし、交通の便から見て要所からの上流に競合店が出来て新規顧客を取られているなどの社会事情もある中で、店の者が店に来る客の中で勝っていた俺に責任をなすっただけだろう。

 反対に、商業的な成功を収めている市街地のショップは見知らぬ人でにぎわっており、そこで楽しそうに遊ぶ人に昔のトレカの類は友を呼ぶ感じとか、マイノリティとして仲間を大事にする感じはあまり感じられず、流行っている街で当然のように人の出入りがあって、テレビゲームでいうとネットゲーで野良のように拾われたり捨てられたりする軽薄さを感じるし、そしてそれは都市としては当然の対人距離感でもある。

 付き合ってみると、その中にいるひとりひとりにも人間的な魅力や相手としての面白さはあるのかもだがな。その輪に入ってゆくのには新版のカードセットや店の定額制の会員証のようなものが必要な仕組みで、必要経費が持ち物としてのカード代より高くつくなら遠慮するという消極的な態度を今は取っている。


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