R-TYPEをじっくり遊べる幸せ

 昨晩アマゾンでぽちったR-TYPEがポストに届き、遊んでいたら3面で死んでリトライしているところに親父がスシローの寿司を持って帰ってきた。

 俺は子供の頃寿司が苦手だったが、独り暮らしを経て何でも食えるようになり、まあ冗談だとは思うが寿司を旨そうに食っていると「ホントにお前は息子なのか?」というような時があった。

 しかし、親父が親戚一同でスシローに行っている間にクッキーとかチョコパイとか甘いお菓子を食ってコーヒーを飲んだ。腹が減って持って帰ってくるまでの間に少しくらい間食しても寿司は食えるだろうと思ったからだ。

 結果、いくつかのネタがマズく感じた。特に俺が嫌いなのは甘エビと光り物だ。そして遊んでいるのがゲームボーイ。ああ、俺はこういう子供だったよなと思い出した。

 昨今のゲームはゲーム機のスペックが上がって、それでもソフトは投げ売りで1000円以下でセールされているようだ。俺はプログラマをしていた経験があって、自分の出来ることの延長線上にある古いゲーム機のプログラムならどのくらいの手間か想像が及ぶので、それを品定めする変な趣味があるのだ。

 しかし、プログラマとしていかに低スペックのコンピュータに詰め込まれているかというのを考えているから手が込んでいる職人を想像して対価を払うべきだとおもってしまうのだが、もっとハイスペックのコンピュータでクソコードでもコンパイラで最適化がかかって軽くなるケースなどもあり、大企業が開発機材に投資してプログラマやらデザイナーを雇って、何億円もかかって新作を作り、それが何万本も売れるから単価が安くなっているので1本あたりの価値で行くと新しいゲーム機を買った方が割得みたいな計算をしばししてみたこともあるのだが。その感覚でデータがたくさん詰め込まれて手間というより工数のかかった新作ゲームを買っても子供の頃を思い出すような幸福は得られず、無駄な仕事をさせられている苦痛を感じた。

 ただ、その無駄な苦痛は過ぎてみると「あのゲーム頑張ったな」という思い出に変わっており、モンハンもPSP3DSで何本か買った。

 当面、生活の中にゲームをする余裕があり、来る日も来る日も家でR-TYPEが遊べるというのは安心と幸福を感じる。ありがたいと思う。

 ただ、プログラマに絞らず技術者として考えると、ハイスペックが集積度の上がった小型の機械で実現されており、そんなにスペックあったら当たり前だと思うような大手ゲーム会社のゲームも技術の進化や組織的な労働が決して当たり前ではなく、それはそれでありがたいと思えたら幸福なんだと思う。

 どうしてそう思えないかというと、20代30代を労働者として過ごしたので、自分が労働者になってみると貴族の子供のために高価なおもちゃを開発しているというのがどこか丹精込めた手作業のプログラムみたいのではなく流れ作業的で、馬鹿馬鹿しい社会構造だと思えたからだ。

 だから俺は用事のなくなった型落ちのゲーム機でちょっと古くて安くなったゲームを生活費を寄せてお小遣いで遊ぶ方がエコ的でいいことをしている感覚になれるのだ。


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