たまには聖書を読んでみた

 ぱっとめくって出たページ使者言行録の「信徒の生活」を読んだ。

 俺は聖書の読み込みがまだまだ甘く、家が八幡神社の氏子であり光慶寺の檀家でもあり、年末年始には八幡神社からありがたいお札とお菓子を有料で買い、月にいちど光慶寺のお坊さんが家に檀家参りと言ってお経を上げに来てお布施を包んでいた。

 独り暮らしの時に無宗教で家出同然の俺は創価学会に勧誘され、何も知らずに好奇心と義理で入ってしまい、そこで教学助士の資格を取るほど勉強した。といっても大白蓮華という信者向けの広報誌を毎月読んでいただけだが、それから脱会届は出していないがお仏壇を引っ越しの時に返して、家の仏壇の阿弥陀如来の教本も読みだした。お布施は月に3万円だったのでまず婆さんの法要で親戚一同集まった時に読経を率先して、それで坊さんが真っ青になって、次の月から1万円しか包まなかったら「普通は3枚くらい包むもんでっせ」と文句を言うので千円札を3枚にしたら、お坊さんがキレたので檀家参りは断った。この頃にファッションブティックの小物の十字架と書店で堂々と売られていた聖書を買い、八幡神社とはそのままのお付き合いで、お札を買ってうちから紙を買ってもらい、差額はだいぶ安くなった。

 聖書というと弟が中学から同志社でどうやらあの学校は隠れキリシタンのようであり、入学者は洗礼を受けて新約聖書をもらっている。そうすると、従兄妹が揃って同志社キリシタンなのだが、叔母さんも自宅にマリア像を隠していたのを俺が子供の頃にがさ入れして見つけてしまったのだが、いつの間にか「ウチは普通の浄土真宗よっ!」などと口をそろえて「信仰とは」とか「改宗とは」とか、俺も深くは考えないでおく。

 ただ、やっと本題に戻るが、聖書をかいつまんで読んでいると聖書は貧しい人への救いを説く文章が結構目に留まる。支配者から逃れたもので金品を手放してパンを分け合う。そして支配者のいない土地に移り住んでいく。

 その意味で、俺は19の時にゲーセンで知り合った不良仲間やその親御さんに結構世話になったのだが、フリーターでマンション住まいでラーメンやカツ丼を外食するのと、自宅の離れに泊まり込んで麻雀をして、その親御さんが黙ってカップラーメンの業務用段ボール詰めとか近所のパン屋の菓子パンを差し入れてくれていたの、後者においてまさに財産を持たずパンを分け合う信者の如くなりと思い出すのであった。

 ツイッターでフェミの政治介入とか公的資金による保護の話が炎上していたが、俺はひとまず人間健康なら飯だけで生きていけるのだから、金銭的保護の前に都市部では小売店や飲食店の廃棄食品を消費期限前に適切に分配すれば事足りないかと考えている。

 そこに於いて「分けてもらうのだから」とか「安いから」という理由でパンを選ぶというのはちょっと聖書の時代の金銭感覚で、お金が無くても廃棄食品なら肉や油のこってりしたご馳走でも分けてもらえるというのが仏教を断っておきながらも罰当たり的ではあるが、現代社会の現実だと思っている。こんなものが余って捨てられるかというのが過ぎた贅沢で対外的に隠したい気持ちも分かるけど、ご馳走の廃棄食品はあるわけで。

 どうしても、売価が基準値になりがちだが「売れ残る」「栄養価が高い」「消費期限が近い」などの拍子が揃った食品の適切な分配に売価が足かせとなっているのが現実。食品ロス問題と貧困をこれで同時に解決できないかと思うのだが、そんなことをするとお金で買っている人がバカらしくなり経済が崩壊する危険もあるのかもしれない。

 同様に、貧しさというのも金銭的指標での相対的な問題でしかなく、俺は独身で子供もいないからお金としては余っているように見えるかもだけど、それは将来的に結婚と出産を見越した貯蓄でもあって、行き当たりばったりに子供を作って親子で貧しいという人にそれを分け与えてしまうと計画性とは何であるかというとことから瓦解する。

 泥棒だってカネの在り処をかぎつけて盗みに入るわけで、貧困層に政治的な保護という資金源の知恵が付いたばかりに発言権を持ってアピールしているにすぎず、それが国是になってしまうというのがどこか空恐ろしい。

 まず坊さんにもっと精進させて、お寺で炊き出しなどして貧民を救う仕事から始めてもらったらどうだろうとかも考えてしまうのだが。統一教会創価学会だってあるところには金もある。

 だから俺としても、プログラマの友達とゲーム作って焼肉おごるとかではなく、またその日暮らしの小遣いをゲーセンに100円玉で取られているような人がいるとしたら、我慢させて松屋とかタマゴサンドとかで食事を済ませてお金を貯めるという生活の知恵と言っていいのかは謎だが、都市生活の節約術みたいのから入ったら良いかなと思う傍らで、ネットで自分で作ったゲームをフリーウェアにしながら980円の寄付を募っているのである。ここでも経済瓦解の危険を孕んでいる。

 そして焼肉おごるより松屋カップ麺かタマゴサンドみたいのが、先述の廃棄食品問題と一緒で、そここそ居酒屋とか焼肉とかおごってくれって言う問題になる。

 そうなると聖書から思想を学んでも、正しい食品ロスとか分配に政府白書や輸出入統計が必要になってくると思うのだが、そうじゃなく民間で出来ることがあるのに何でも政府って言うのが貧しい人がそれだけを知ってしまったという証左だと思っている。


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