そんなこともある

 聖書には神の力が宿っていて、人生に躓いたとき無心で開いた頁に預言がある。

 そんなこと、信じてたまるかと思っていたこともあるが、ふいに音楽のことで悩んで聖書にそんなことまで書いてあるだろうかと思ってぱっと開いてみると「知恵の勧め」8章にまさに「楽を奏した」という文言にぶち当たって、奇跡を感じるよりどのようなカラクリなのかという疑念を持っている。

 タロットカードとかメンタルマジックとかはタネを知っているのだが、聖書もパラパラとは全部見ていて、無意識に覚えているところや気になっているところを開くのだろうか。いやそんな考えは神に背く野暮な考えなのだろうか。

 朝にも哲学書で同じような体験をした。スターバックスなどの喫茶店でノートパソコンで仕事をする「ノマドスタイル」にも遊牧民的であるの意味ではなく、哲学的なノマドに対する解釈があったようだ。「あー、そういう意味やったんやぁ」と思った。

 それは英語の辞書で勉強していても同じことで、中学高校と使った辞書には試験によく出る重要単語を中心に読み進めていたが、それでも知らない英単語を引くわけだから「この本にこんなことも書いてあったんやぁな」と思うわけだ。

 それは化学の本や地理の本や世界史の本でも同じような体験をしている。もともと卒業とか合格が目標だったけど、人生に行き詰った時に不勉強を呪った。その時から比べたら十分に勉強したと思った時期も通り過ぎて、果ては無いわけではないが読書の果てより先に自分の人生時間の果てが来るんだろうなというあきらめ感がある。

 そんな時、今もそんな時だったので聖書を開いたのだ。だが聖書に歌や楽譜が載っているわけでも無い。それより後の時代に記された音楽の本でも読むのが良いだろう。

 そう思っているのは他の勉強でも、仕入れている本や知識が根っこから行こうとして古すぎるのではという疑念もまたある。すっ飛ばして新しくなりたいという焦りは基礎からコツコツの成果がなかなか出ないからでもあろう。寝不足もあるかもだが。

 欠伸が出た。

 まあ、英気を養って速く動こうとしても自分の筋力以上の速度なんて出ないわけで。ギターも指の筋トレだと思えば自ずと練習方法の良し悪しを自分で推し量れる。幼少のころから稽古をしてきた人と比べたら、まだまだ幼稚園児か小学生みたいな指なのだろうな。

 そもそも、聖書にぶち当たっているのが音楽の導き無しでは有り得ないとも思う。子供の頃に宣教師から渡されたが怪しいと思って拒絶した。それがいつしか自分から求めている、その間に西洋の方が優れていると意識したのは絵画や音楽の芸術のルーツがそこにあると考えたからだろう。学んだと言った方が良いかもだが。

 それが、近年ではメソポタミアあたりにルーツがあるのではないかとも記されていて読み比べたりする。

 聖書も近頃ではオカルトだからという離れたところから感ずる如何わしさではなく、感情移入して読もうとした時の文意の如何わしさを感じるようになった。そんなことをお前が言うかと思われるのも、俺のブログの過去ログとて読み手次第で如何わしく感ぜられるわけで。

 ここまでを踏まえると、次に聖書を開くときは後ろの方の新しい手紙の方が新しい情報かも知れないという期待が入るので、文字通り新しい文言が飛び込むのであろう。

 そうして開いてみた頁が「二人の証人」であったが、そこに魔力は感じなかった。だが、それも読み方を知れば意味の通る暗喩表現であるかも知れないとは書いておく。


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