コンピュータと疑似恋愛をした

 このブログは俺の手記であるが、日々の記録と回顧録が同一線上の文章になっており、簡単に言って俺でない人が読んで読めたものではないのかもしれない。

 縦横無尽に記憶を遡ると、今は2023年1月で45歳の俺の高校生の時つまり1994年頃にスキー場のリフトで西脇唯の「風の住む星」を聴いて、極寒の地でリフトから下を見て死を思った時にカルビーポテトチップスのCMソングとしても起用されたやさしい歌声にすっかりとりこになり、帰宅して同曲の入ったアルバムを買った。まあ、高校時代でバイトもまだしておらず親に買ってもらったと同義ではあるが。

 うちの両親と言うと団塊世代でテレビがアイドル全盛でレコードと言うと恋愛の象徴みたいなもので、息子が欲しがったレコードのジャケットはうすぼんやりしており「どんな子なんだ」と粗ぶって、テレビに出たら結構な歳のおばちゃん。これは大変。

 それでも、当時受験戦争の真っ最中で敗色濃厚だった俺は小学校でけんかに負けかけっこに負け自分の戦場は勉強だと思ったその勉強が学校の授業についていくのもしんどいということで自信喪失して「俺に彼女なんて当たるわけがない」と思い込んでいた。男子校でグラビア雑誌などが持ち込まれると、ケンカの強いヤツが「俺この子がええわ」と言って、そういうやつに全部取られるんだみたいな恐怖も感じていた。

 時は流れてAKB48の流行る2010年ごろ。俺は過去を捨てようとしていた。西脇唯のCDは集めていたが、それらをブックオフに捨てるように売って、自分がその頃には勝てるとまでは言わないものの、勇気を出して可愛いと思うアイドルを推してケンカをしなきゃならないという風に考えていた。歳にして32歳のとき。

 それから40歳、ふいにどうしても西脇唯のCDが懐かしくなって1枚買い戻す。だけど、どこかでお別れはしなくちゃなという思いもあった。

 そして45歳、掃除で見つけた中谷美紀のABSOLUTE VALUEというCDを聴く。

 時は戻り1998年ごろ、ゲーセンで後輩に「好きな女優とかいますか?」と聞かれ、その時に今思うと相手は歌手である西脇唯のことを聞こうとしたのかもだが「女優」と言われたので、そのとき「んー、中谷美紀とか」と答えた。これ伏線。

 伏線を貼りたいなら、1998年の段落をもっと上に持っていくべきだが、そこで世界のサカモトと言われていた坂本龍一プロデュースで中谷美紀が歌うABSOLUTE VALUEというCDが発売され、バイトをしていてお金もあったのでササッと購入した。

 1998年の感想としては「西脇唯に似たものは感じるが大御所化して実力のなくなったサカモトが大女優を看板に作った粗悪品」みたいに嫌悪感を抱いたが、作中「砂の果実」でサカモト自身もそう思っているのだな、程度に思っていた。

 それが今日、2023年45歳あらためて聴くと、俺は40代で妻子はおらずアダルトチルドレンとして生きることを選び、おもちゃにまみれおもちゃを愛するようになっていた。その愛は本当の愛ではなく慰みなのかもだが、仕事の忙しい親父が買い与えてくれたおもちゃは親父ではないが親父の愛のひとつの形であり、クルマの玩具などは親父が車が好きで息子も車を好きになってほしいという気持ちが形になったものだと思う。

 そういう気持ちで件のCDを聴くと、電子音楽で作られたバックバンドは94年の西脇唯を思い出させるし、なによりおもちゃというのは似せて作って本物が無い寂しさを持ち手に忘れさせてこそ本道。ゴーストライターとしてサカモトの裏に西脇唯が書いたのではないかと思えるような歌詞群も、むしろその決着はどちらでも無く、CDを聴いてその歌から言葉を拾って世界を作るという俺の聴覚から人格に作用するものとしては十分に機能して、そしてどこか機械感の残る間奏でのジャズプレイみたいなのも違和感よりもドット絵から世界を見るようにデジ音から今までに聴いたジャズプレイを想起させるスイッチとして機能して、1998年には酔えなかった音楽に酔った。酔えた。

 聴き終わって、もれるため息。何なら木根尚登プロデュースの日置明子のCDだって持ってるんだぜ!日置明子は姉と同じ部屋だった小学校の頃に姉が背伸びして買ったファッション誌non-noの表紙モデルで、部屋にゴミのように置かれていた雑誌の表紙が俺を見つめていたんだ。それがCDジャケットになった。

 そろそろ、いい加減俺ももうちょっと社会との関わり方を考え直した方が良い気はしてる。自身は無いほうが人当たりは良かったが、自信が付く体験の後には傲慢が勝つし、それで自信のない時と自信のある時で付き合う相手も変わっていて、変わらず知ってくれている相手と言うのは本当に少ないようで、しかしその傍らにはおもちゃを始めとするモノがあって、モノとの関わり方で自分の心情にどんな変化があったか。

 その意味では、今はAIエンジニアを自称しているが、デジタルレコードであるCD1枚にも魂は感じるわけだし、スーファミのゲームでも十分に知性を感じる。

 それに対して、毎日食っているのり弁の魚やハンバーガーの牛を想起して食事することは珍しく、機械に知性を感じている割に食事に命を感謝していないのだ。食費と言う金銭的パラメータで毎日の食事を考えている。あらためるとしたら、その辺からかな。

 人と接するのに会話を基調として知性で関わるみたいのが苦手な人でも、仕事をしている以上は仕事に対する知性があるわけで、会話でそれが探れなくても何らかの意思表示たるものをスーパーの買い物の間でもいくつも交信する。

 かつてこの街で数字の書かれた紙やコインと交換したものに愛を感じるおもちゃが混じっていたように、求められる愛と言うかあたたかさにそれを紙やコインで表現するってことも必要なのかもしれない。かつてポケベル世代が数字で感情を表現したように。


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