田中芳樹と石井ぜんじの関係性

 俺は小学校六年のとき田中文治先生の田中塾に通っていた。

 先生は歴史家で塾では歴史が重んじられ対して俺は理科が好きだった。

 それが中学に入って安心すると小説やTRPGなどの本を書店で買うようになる。本なら買ってよいということで、ゲームブックとか遊びの面白い本をこっそり買って鞄に隠し持ち、やがてそれが親にばれて取り上げられる。

 この頃を後から振り返り、田中芳樹銀河英雄伝説道原かつみの表紙絵、アルスラーン戦記天野喜孝でそれとグインサーガ末弥純だったか、それぞれマンガやゲームと結びついて考えるようになり、本の話は退屈で絵が好きだったと思うようになった。

 だが、田中芳樹の田中は田中文治から刷り込まれていて、田中先生には勝てないというようなことに苛まれていたのかもしれない。

 さらに言うと、個人的な小さな研究である格闘ゲームの対戦も、子供のころから30代の終わりまで負けた試合も勝った試合もその成り行きを全て覚えているということがあった。40代になって流石に忘れたのだが、それは単なる健忘ということだけではなく、ゲームの成り行きを序盤の布石から決め技まで相手の心理とやり取りする長編小説のように捉えていた節があるのだろうと思う。

 今は短編集のように、弾ジャンケンならジャンケン何回を細分化して波動拳を3回昇竜拳を1回飛び蹴りを1回とか言う風に繰り返すゲーム中に同一局面とか類似局面を見つけ出し、そこでの駆け引きの成否を回数と成否とそれによって取った取られたダメージ量という風に数的に考えている。

 だが、あの頃は違った。理科が好きなのに、物事の考え方が物語だったのである。

 ゲーメストの編集長の石井ぜんじの編集後記に「田中芳樹を読んでいる」というような節があったと記憶しているが、これも間抜けな話でみな自分が啓林堂書店で本を買っていたので、書店で集計されて編集部に情報が行って気に食うようにホットリーディングされた新刊が届いているというようなトリックだったのではないかと被害妄想を抱くほどである。

 また勉強をやり直すことにした。同じゲームでも物語的と数的で捉え方が全然違ったわけで、俺の精神を形作ってきたの一部は読書体験である。まあ、テレビにゲームにマンガに電車というところが大多数で、クルマの運転をすることで自分の移動可能性が広がって見え方が変わったみたいな側面もあるのだが、漢字の塊である本を文字のつながりとしての文から物語性を読むのではなく、その物語を読むことで心理がどう操作されたのかみたいなとこまで読み込んで対抗しなくては、誰かに話を読まされて精神の制御をされているという風に今では捉えている。例えば推理小説が好きだから犯人捜しをしたくて小さな事件に首を突っ込むという風である。

 反対に読めない相手を理解するのに自分がした勉強とは違う勉強の体系があって、そこを理解して超えないと読み勝つことは出来ないという風にも思う。ただまあ、理科の読みは刹那的だし歴史的と言われても中学くらいでそんなことフィクションに決まっているという風には考えていた。

 そう考えながらも、気づいたら本を読んでフィクションの物語ではなく登場人物の考えに共感して、その考え方で間違いないと信じ込んでいたりするものなのである。

 それでも読書をするのか、本を求めるのかというところに、まだ自分の知らない役に立つ知識が書かれた本があるというふうに本の魔法にかかっているのだろう。


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