実はUnityにいちど手を出して諦めた話

 てか振り返ると俺が中学の時には既にPCエンジンGTが10万円で出ていて吉野が持っていたのだが、その吉野が「いらないから貸したる」とゲームボーイを捨てるように俺に渡し、そのゲームボーイがクラスどころか学年全体、上級生まで混ざって取り合いになり校内で持ち物検査が敢行されるくらいにローカルな事件を起こした呪物だった。

 何故に今更そんな話を振り返るのかというと、俺は今使っている富士通のWin10マシンで3Dプログラミングの実験をしてノートに絵を描いてゲーム作りを夢想しているが、実は12年前にはメインマシンはMacBookProでUnityの本も初版ではないが1年遅れくらいに四版で買えていた。

 だが現実問題として、MacBookProでも当時のUnityを動かすには重く、画面も小さくPowerMacG5だったかな、とにかく最新最高スペックPCでないと最高の開発環境にはならない。そこをめがけて本は書かれているし、追加のアセットを買うお金も渋ってしまった。そしてついにはMacBookProも故障して、今は同程度のスペックのマシンを使い続けている。

 考えたら、中学の時にPCエンジンGTが買えず、ひねくれた欲求不満の解消である「高くて取れない木の枝になっているブドウの実はすっぱくておいしくないと自分に言い聞かせる」というようにゲームボーイを面白がり、PCエンジンをあきらめていた。

 俺がPCエンジンを持つのはバイトしだした19の時だったように思う。中古でゴミみたいにジャンク屋で売られていたのを大事に引き取って、今更なゲームを面白がっていた。その頃に、ゲームはスペックではなくプログラムの作り込みで面白くなるという強い思い込みを持って、それから専門学校も授業料の安いところに進んだ。親父はカネモなので「もっと良いところに行け!」と言ったが、そのくせ「お前はまだちゃんと稼げないんだから」みたいなお金の話をする。いや今なら分かる。高い教育を受けて良い仕事に就き収入を上げるべきかもしれない。そのサイクルが上手く回れば良いのだが。

 大体からして本で学ぼうというのが既に貧民かもしれない。誰もがスマホを持ち、SNSの動画などで見て学べる時代が来ているところに、厚めの本をどしっと買って「さあ勉強するぞ!」と思ったらマシンスペックが足りずなかなか進まない。

 MacBookProを買った時の使用感は良かったし、それでGarageBand作曲に夢中になったのが「俺でも音楽家になれるかも」という勘違いの始まりで、そして今実際に幾許かの収益はある。それでもSNSで3Dゲームをグリグリ動かして「ゲーム付くってマス」みたいな投稿が羨ましく無いわけが無いし、それを「高価なPCでアセットどんどん買っているだけのお金持ちだ」と思い込むのは単なる僻みだし、同様に自分が専門学校に通う前は「今更コンピュータなんて」と言われ活躍すると「良いの持ってるだけでしょお金持ちだし」みたいな外から受けた攻撃的な発言は全部僻みで、その両面が分かると、ひがまれても良いものを持ってキラキラすべきかというのは俺の場合収支がそれでプラス転化するかという所に全てがかかっており、MacBookProを持っているとネットで人気集めは出来たが実収入が無く、またWindowsプログラマに戻って業務系と呼ばれる仕事でお金を稼ぎ、親父の仕事の伝で富士通のマシンも少し安く手に入っている。

 そこで、採算が第一義ならまあ現状でも満足だが、色々と満たされてくるとまたくだらないと思われても承認欲求が出て来て採算度外視で目立ちたい気持ちとその目立ちは収支マイナスとしてどれくらいの「お買い上げ」なのかという家計簿の趣味割合みたいな話にもなり、しかしまあ俺が年中「死にたい」とか言って今日も体の不調を嘆いていたら死にたかったのだが、趣味に没頭してネットでキラキラ出来たら暫くは生きる気力も戻ろうかと思ったら将来の貯金より毎日使うPCにもっとお金を使うのも悪くは無いのかなと思うんだけど、そこまで自己分析とメタ認知が出来ると、最初に書いたように土台からしてゲーム趣味と言いながらPCエンジンGTを買う金が無くてゲームボーイ横井軍平を職人気質だと雑誌に刷り込まれたけど、ハードウェアの観点から考えたらどう考えてもPCエンジンGTのほうが高集積なわけで、ほぼすべてのロジックが貧民の高い木の枝のブドウをすっぱいと思う辛抱から来た真偽の分からない、いや恐らくは「甘い」と分かり切っているものを「すっぱい」と思い込もうとした捻じれたロジックであり、そこらへんが払拭できて甘そうなものを甘いと正しく認識して、そして旨いものに味を占めて贅沢するという構えが出来ていないと、せっかくの贅沢な時間すら「ちょっとおいしいだけなのにお金を無駄に払ってしまった」みたいな罪悪感が上書きされる。

 そう考えると、今の暮らしは十分ではあるが、どこから見ても貧しい。そこをまず認めてみて、しかしまあ昼飯はマクドかスーパーの弁当でそれを買って暮らしている人は町に無数にいるわけで、中流であり、そしてそれ以上の贅沢を探すには上手い店をケータイで見てクルマで移動する生活習慣の違うクルマ社会の住人でなくてはならず、そういうクルマ社会の住人が俺の弁当暮らしをネットで見つけて彼らの食い物より旨いのかと野心を燃やしてスーパーまで弁当の横取りに来ると迷惑に感じるのだが、ファーストフードを好む中高生がスーパーまで安い弁当を買いに来ていると良く勉強している子供達だと思ってしまうのでこの後輩可愛がりな感覚はまあ明らかに自己都合ではある。

 そりゃ同じようにスーパーも商売なので、売れるとなると弁当の数を増やして来客に備えているのだが、そうするとおかずの品質とかもまちまちになり、同じ店で毎週弁当を買っていても「今日のはうまかった」「きょうはちょっと物足りない」などと感想が様々ではある。

 だがそんな感覚は毎日のメシで充分で、ゲーム機やゲームソフトを遊び比べてどれが一番面白いか品評して最高のものを持ちたいという贅沢は度が過ぎているし、そしてそれで最も味を占めたのが泥棒や中古業者で、最後にその客が最高だと決めたものだけを横取りすればいいというような構図が出来上がっていたのである。

 そうすると最高のものを横取りされて買い比べたほうが何故正気を保てるかというと、ちょっと買ってみて遊んで「これはつまらないクソゲーだ!」と断じて捨てる行為が文筆業社会的に上位とされるクリエイターを貶める行為でそれで自尊心が保てたからだろう。すごく幼稚だが、あのブドウはすっぱいと思っているよりもぎ取って満足しているわけで、行為のレベルでは残念ながらそちらのほうが達成していることになる。

 酸いのか甘いのか、というのはもちろん糖度だが、空腹度とか、測るまでもなく農家の人の見た食べごろはあるだろう。だからまあ、ゲームも買う前にクリエイター界隈から出る「おすすめ度」や批評の媒体が売れるのだろう。しかしそれらは本当に正直なのか、ウソとは言わずとも自分と感性が合うのか、そして経済的に身の丈に合っているかというところを見比べていくと、繰り返すがウチはそこよりかは貧乏なのだ。

 「Unityでゲームを作って遊ぶ」という行為に最新のPCと有料のアセットを揃える行為。それは安いか高いか簡単に計れるものではなく、上手く作って当たればゲームクリエイターとして売れるという夢も込みで無数の経済効果が期待される。事業なのだ。

 んで高いパソコンがあれば誰でも出来る行為なのかというと、まあ速い車はアクセルを踏めば誰でも速いのかもだが、レースにはドライバーの腕にも多少の差は絡む。そして最新ゲーム開発はそういう意味でレーシングチームのような側面も持っているかもだが、Unityでのゲーム作りは完全に趣味としてのスポーツカーみたいな夢だろう。

 そう思うと、50万も出せば十分に環境が揃うわけでカーレースより安いかもだが、50万は中古車でぼろいのが買える値段でもあるので、普通の優先度なら先にクルマだろう。3000円の本1冊でUnityの全てが分かってゲームになれば良いのだがな。貧しい発想だったという自戒を込めながら、それでも何が書かれているのか理解の及ばなかった事が十年越しに少しは分かるようになっている自分の成長を多少は喜べた再読であった。


🄫1999-2023 id:karmen