俺が人に騙されて間違った解釈を飲んだうえで、正論を突き合わせ正しい方に向かったとして、それを説明するにはまず騙されている状態に読者を導かないといけないので、賢明な読者には二回ひねる文章の相手をしてもらうこととなる。それは面倒。
しかし、巷の攻略本には間違いだと思う部分も沢山ある。いや沢山と言うと言葉が過ぎる。すべてが正しくないと気が済まないので、本の論旨に違うと思うことがあるとそれに気が行くだけで、大筋では正しいことが書いてあるのかもしれない。
もちろん、コンビニでパチスロ攻略ガイドを買ったらパチスロが当たるのかとか競馬ブックを買ったら競馬で儲かるのかと言うと、まあ常識的には儲からない。何故ならお客さんの払うお金から親の取り分があって、分け前を客に戻すので、その時点で期待値負けなのだ。だが、そこに人には優劣があり勝者と敗者に分かれて、自分は勝者になれると思うものと、はじめから博打は遊びで負けてやるものだと思っている人がいる。当然、勝とうとしている方に分はあるだろうが、それでも親より強いわkが無い。
はじめの間違いは正しい手順を踏めば勝ち上がることができるという主題だ。始めから間違っている。そして、ある強くなるための命題を真偽でもって計ろうとしたところである。ゲームなので勝ち負けがあり、計るなら歩合で取るべきだが、必勝をお題目として、実践に臨み負けた手を悪手として学習したことがある。同じ手で押し通せば買った可能性のあるところまで強くなったのに、必勝を願うあまりひとつの負けで全て手放してしまったのだ。勝敗の意味では、勝っている。もちろん負けてもいる。ただ、その中でデッキの構成によって勝率を上げても、当然だが同じデッキを張られると勝率は五分に戻る。そんなことはゲームの性質上有り得ないだろうとはじめは考えたが、ベスト8を一度経験すると、それからマークされてどんどんデッキを真似られた。その上で勝てるのが親だとしたら、それはもう親を敵に回したと言って間違いないのだが、敵に回すと攻勢に出られるわけではなく、色々な手でハメられたと言って差し障りない。
いちど、もう全てやめようとカードをほぼすべて手放した。それから、どういう巡りあわせか、また地域のショップにふらっと入ったのだ。メンツはすっかり入れ替わり、そこにいる若い人と遊びだした。それはまあ満足な結果だったが、32人トーナメントで2位で景品が出ず、また16人から24人程度の大会で3位入賞して景品を受け取った。しかし1位の景品に憧れ、次は大会で勝ち取るのではなく同等品をミドリ電機で予約して買った。店にひとつしか入らない限定品を素早く取ったことが後々知れ渡り、MTGの取扱店というのはおもちゃ屋やホビーショップに電気店にコンビニとどんどん取扱店舗が変わる。近いところはやがて全滅した。俺も滅ぼす一端を担っているのだろう。

ゲームに戻ると、ホビーショップに集まってデュエルする以外にこのゲームにどんな上達法があるだろう、という感じではあるが、集まってデュエルしても勝つとすぐに対策されたりそれでも勝てなかったりこちらの方が有利だと思われるとすぐに真似られるわけで、その意味で差を付けるのはかなり難しい。少なくとも反対に負けても五分までなら買えば上がれるだろう。その結果トーナメントでは半数以上の試合が同型戦に名たりするもので、皆が勝ちたいのも分からないといけない。
その意味で、写真に撮った今日の答え合わせはある意味でありふれたアーキタイプに落ち着いていると思う。独自の奇抜な発想を捨てて、当然だと思う攻略法に徹する。
それでもにじみ出ている特徴としてはエンチャントクリーチャーと数多のラフィークが入っている所だろう。ボガーダンの槌や青のドローカードは結局やめた。それはそれで勝因だったが、そこまで相手が弱い時にいじめのようになるカードを「強い」と褒めて、しかし強いデッキ同士での僅差のデュエルを取る決め手とはならないであろうカードをもっと速効型に研ぎ澄ましたのだ。人との論議には間違いや逆言葉などの意地悪もあるだろうから、数字で測るしか無いようで、それもわりかし取り留めがない。組み合わせが膨大だからだ。
そこまで最大限勝とうとすると、ちょっと買いリミテッドに出て景品をもらってその範囲で勝とうとした時に足りないと思われるカードが気になる。しかしそれを無理に欲しがると、中毒となってトーナメントでの賞金取りの確率論ではなく店頭でパックを買って当たりが出るかという初期の確率論に巻き戻る。俺の答えは「ちょっとやそっとじゃ目的のカードは出ない」だ。趣味として仲間を増やすために「チョットした当たりは誰にもあって気軽に遊べるゲームだよ」とは言う。しかし賞金取りとなった時に、優勝を狙うに十分なカードが当たるかと言うと、疑わしい。
そうして、勝ちを狙ってデッキを研ぐと、ゲーム展開が単調になって、短いターンで決着するか、引きが悪くてマリガンするかで、幾多のカードは箱に仕舞ったまま出番なしとなる。将棋でも、もし必勝法が見つかったとしてそれが矢倉で、矢倉ばかりになると飽きるから、色々の手が試されて名前がついて迷わせることで面白さを保っているのではないかとすら思えるくらいだ。少なくともMTGは必勝法が決まってから余りのカードが出て、それで負け役を買ってくれるファンがいるから成り立っているのだろう。
そこを負けないで皆が勝とうとする殺伐としたプロツアー京都の予選を思い出す。あの空気は改装前のなんばの競馬場と同じだ。パチスロをやめてからふらっとパチ屋に入った時、かがんで打っているお客さんたちがやたら暗く見えて、台のひとつひとつに興味が無くなり、なんであんな場所に夢中になったのだろうな、と思ったことがある。
しかしその前には、本当に夢中になっていて、その時の気持ちをお金の勘定でもって蓋をして追い払っているに等しい。生活に不安が無く、お金に余裕があって、MTGを心から楽しめた時期が俺にもあったのだろう。しかしそれでも貯金は今より少なく、優勝を夢見ていた。俺はつまらないことに趣味をしなくなって、貯金で優勝賞金以上を貯めてしまったのだ。
しかも、そうすることでゲームの研究はもっと捗った。夢中で遊ぶより、どうすれば景品を勝ち取れるか、お金の損得のようにゲームを見ることで、楽しかったゲームの中でも駆け引きの数理的な性格に気付いて、ライフや手札に戦場のモンスターの攻撃力や防御力、数で示せるもの全てがゲームの駒で、絵が可愛いとかカッコいいとか、そういうものが本来の楽しさだが、それらを虚飾として成功を獲得だと考えたら、親が期待的に勝つので参加は損になる。それでは参加すらできない。安い交通費で行ける範囲しかターゲットにしない。それではプロツアーも行けない。貯めるカネはあるが遊ぶ金がなく縮こまってしまったのだ。ギャンブラーは負けが華だという。
そうすると、少し巻き戻るが負けても華があるのはカードに絵柄と彩があるからだ。とすると、勝つために必要最小限に切り詰めるのではなく、アレもコレもひとつのゲームに詰め込みたいと思うからデッキ作りが楽しく、相手がいないからまだ見ぬ相手にデュエルの夢が膨らむのだ。
いまアデプトが徒歩圏内にあったら、行くだろうか?キューピー堂やベンテンドウと何処が違うだろう。そしてプロツアー京都の予選会場はどんな空気だったろう。もちろんある者は栄光を手にしたかも知れない。しかし、その後の人生はどうだろう。
ホビーショップの店員はと言うと、行って楽しい場所だと思ったこともあるが、閉店の近くなった頃を思い出すと、もうただただ卑屈な人にしか見えなくなっていた。今の俺も読者からそう見えているかもしれないとも思う。店が閉まったとなると親が勝つという前提条件もまた場合によっては崩れているのだ。
勝ってつまらないとは言わない。勝つのは楽しい。だが、勝ちを求めても、チョットした運で負けてしまうゲームではある。ゲームが目的なら、交通費を払って遠方の仲間と遊ぶことも楽しいひと時であったろう。ただ、今の俺は貧しいのだ。貯金をしているのは仕事を失い収入が無くなるというどん底を経験してからだ。頑張る若さも無い。
もらえないお金だから、大切にして少しでも貯める。その積み重ねが稼ぎの良い頃より多いわけだが、使うお金の良が極端に減っていて、ケチの烙印を押されて後ろ指をさされている。だが、それで多くのデュエリスト仲間の心情も窺い知ったのだ。
ありふれたアーキタイプに落ち着くのも、俺がそれだけ他の人と足並みそろった証拠だろうな。楽しいと強いが両立すれば良いのだが、それが同時に成立しても楽しさの一因が人間関係なら、その相手から出る負けの卑屈さがこちらの楽しさを奪う。そりゃ負けていたら、勝って喜ぶ相手にサービス業的には成立するのだ。難しい商売だと思う。勝ったら儲かる博打のシステム上の問題点だと思う。