ここ数日、中野信子とメンタリストDaigoの本が気に泣ていた。スーパーで買い物した楽天ポイントが貯まり、以前はそれでPS2ソフトを中古で買っていた(350円程度)
ゲームは十分ある。まあ本も十分ある。プログラマとして技術書を読み漁っていたこともあったが、技師としての仕事に行き詰まりを感じて研究開発職に憧れた。まあユニオンシステムにいた頃は開発部であったが、別に誰でも分かりそうな設計製図がもしかしたら俺にしか分からない部分もあるのかもだが、つまるところプログラムマイコンとして売られていた製品でソフトを作っていた会社が市販品としてマイクロソフトのウインドウズOSが載った製品の普及によって、OS上で動くアプリとして製品を提供せねばならなくなり、専門学校及びその後の独学でウインドウズプログラムが出来ることでの採用であった。
まわりくどいが、使い勝手の良かったマイコンが進化で高額化して、特許回避で複雑化して使いにくくなったが安い製品のほうで制作することになったその干渉に人件費が入り込んでお給料がもらえる。ねじれだと思うが、それが人月工数によって経費計上する工業簿記上でソフトの単価を担保する大人の事情があるのだ。
それで何だっけ。そう中野信子とDaigoだ。書店で難しい本を買って読むのに疲れた俺は、いつからか頑張るために自己啓発本に手を出した。怪しい新興宗教のようなものだ。そんな本でも3000円くらいしたものだが、古くなったものが古本で250円とかで売られている。表紙に芸能人と知識人の間っ子くらいの人の顔写真があり、感情移入しやすい。中野信子の本は女性が読むのを想定していて読みやすく、メンタリストDaigoの本は題名とそのパフォーマンスから何となく効き目がありそうだ。
だが学のある人は相手にしない如何わしい本であることは間違いなく、勉強がイヤになって疲れて安易になっている証拠というか、俺の心からのサインだと思った。
結局、メンタルであるわけで、本は俺の考え方を変えてくれるものであり、ハマっているこのブログってやつは俺の考えを世界に発信して、誰かに分かってほしいと願っている。その中で人は変えられないが自分は変えられるというのが自己啓発のひとつの主題で、対してDaigoの本には「自分を変える52の心理トリック」と「一瞬でYesを引き出す心理戦略」という自己啓発と他者説得の対極的な二冊のどちらも250円で俺の楽天ポイントが500ポイントだったのだ。
だが、その500ポイントで俺は弁当やバナナやパンを毎日買うのだ。買い物でたまったポイントだが、現金のように食費にするのが普通で、クリックひとつで買えるからと如何わしい本にしてはいけないと思った。
結局、メンタルというと日々のゲームも自分のメンタルをコントローラと画面とスピーカーを通して気持ち良くなる機械としてのゲーム機があって、しかしその中に対戦型のロジックが入っていて、勝ち負けを競うゲームのシミュレーションとして勝ちやすくなるために日々勝ち方の研究をしているのだ。メンタル的に解決するとしたら、勝っても負けても何も減ったり増えたりするわけではなく時間の浪費なので辞めてしまっても良い。ゲームに勝つための思考法の変化なら、中野信子より攻略本の方が効くだろう。
そしてDaigoを読んでYesを引き出したい営業先が俺にあるかというと、まだ段階はそこに至っておらず、年金暮らしをしているだけなのだ。何を自己啓発するかというと目下ゲームをするかギターを弾くかで、途中で投げたピアノの楽譜集はホコリをかぶっているし、ギターも続けているが、サボりがちになったところでネットで本を探したのだった。
こんなに読みたいという気持ちがあるのに抑えるのはどうだろうと思うと、それがまさに俺が今日までカネを貯めてきたマインドセットで「無駄遣いをしない」ということであろう。もういちど気合を振り絞って化学の勉強を再開した。
特に化学式ではなく和名の由来などを学んで疑問がスッキリしたところで、日々口にする食物であるところの有機化学に進むわけだが、分析的に炭素と酸素と水素でほぼ全て出来ていることは相当に古くから明らかである。そして分析的にCHOであっても化学変化で作ることは化学的には未達で生物の力を借りて植物の光合成でデンプン質として生産されていることも理科的にも社会科的にも明らかである。
そこへ来て心理学というのはいかにも如何わしいものである。確かに、人が心理的に初見でそうしてしまう所作はあるだろうし、知っていたらブロックできるわけで知れば優位になる駆け引きもあるかもしれない。ただそれに250円の価値があるかというと、誰かが読んで置いておく価値無しとしたから中古で売られているのだろうとも思うが、読んで暗記できたから売ったとか、人によっては読んでも価値の分からない人もある。どんなことが書かれていそうか無数に想像したあとで、精神というのも結局は電気的もしくは化学的反応であるという学説を思い出し、脳神経とかの本を探すとそれも安いものなら古本で250円程度であったが、同じようなものが図書館で借りられそうだとも思いだした。
ゲームを日々している。音楽もDTMで気持ち良くなった後に趣味として楽器の練習をしている。絵画は子供のころマンガを描いて絵心教室DSを全部やってから飽きて辞めた。そしてコンピュータは画面に絵を出すかスピーカーから音を出すか、それともゲームのように何らかの手続きが中にある、それが人間の五感と精神の関係性のように、あるいは五感の刺激のしようによって精神は変わり、ある精神の状態にする刺激のセットがあったとして、それが自己啓発本なのだろうと思うが、情操教育である義務教育を受けても一定数は犯罪者になり、高等教育を卒業しながらその自分の精神性に自信がなくマジックにのめるというのはある意味で自分の精神が他者洗脳のような犯罪の兆候を見せているのだろうなとも思う。ある人を意のままに操れたら、どうするだろうか。
そう思うと、自分がとても精神的に窮屈にやり込められていて、現状打破したいのだという自我が出てきた。外に行き場がなく部屋で勉強、ゲーム、楽器、読書、テレビだ。そこに最近はスーパーでの買い物がある。地図を見る。奈良は田舎ではないかもだが古都と言ってもつまらん店と神社仏閣があるだけで何も楽しくない。
そして本と言っても読んで自分のマインドセットを変える以外に、実験科学で他人の精神を相手取るよりは物質的に物理化学をくまなく履修した方が建設的だろうという思いと、それで得られる物質世界へのどこか行き詰った感じはテレビやゲームで満たされていることとどこか矛盾する。映像や音楽で充分ではないかという自己満足の世界にもどこか繰り返しの閉塞を感じているのだろう。
精神は映像と音楽で満たされないのだろうかというと、あとは味覚臭覚触覚で、さいきん弁当以外に余計なものを買わなくなったなと思って今日のスーパーでの弁当の買い物ついでにフルーツであるバナナとアップルパイを買って帰った。
バナナがやたら旨く感じて空腹感から2本食った。満足した。チョコも食った。
そうこうするうちに、楽天ポイントは500円にさらに30円ほど足され、本を読みたい気持ちは抑えられた。本の文字から想起されるものは人間の五感の記憶とどう違うと思うと、まさに感情である怒りや悲しみの気持ちを読書で得たことはある。だが今俺は推理小説や理科系の勉強でサイコパスのような精神性に籠っている。
泣けるドラマを見ただろう。そういう本もあるだろう。それもブックオフで100円で、図書館でも借りられるだろう。だが、今まで生きて来て、知らない感情などあるだろうか。息子が出来たことを想像して、父と幼い頃に過ごした何もかもを思い出した。親にしてもらったように子を愛せる、あるいは受けた仕打ちも俺を育てたもので、叱るだろうか。だけど俺が子供の時にはダメと言われたことも時代が変わって𠮟る必要も無くなるかもしれない。事前にあまりシミュレーションして子供を操作しないようにしよう。という風に自分の精神をコントロールしてゆく。
それでなかなかタイトルに付けた本題に行きつかないので一気に飛ぶと、政治の番組で野党の言う「失われた30年」は丸々「電子立国ニッポン」のITの隆盛の30年でもある。あるいは日本が半導体産業に転換して外貨を稼がないと貧しかったのかもしれないが、産業連関に於いて人間が消費するのが食費と冷暖房の燃料だとすると、電子計算機の発展とそのための投資というのは空虚なもので丸々生活費の圧迫ではないかと。
そして岸田前首相の「生成系AI」発言で政府公金がITに流れたとして、公金が首都圏から地方に流れるという経済をお金で考えての東京一局政治はどう考えても東京で農業も林業も酪農も海産も情報を作って得たカネで買っているだけで、お金中心ではなく消費物中心で見ると中央集権で貢がせるだけの経済、つまり年貢制度と何が違うのかと。
言っている俺も奈良在住で年金でスーパーでメシを買っているだけなのだが、このブログってやつで情報発信を続けている。その情報産業が結局無価値というようなひとつのさびしい結末を迎えたとき、しかし無価値であることを証明するひとつの証明題の問題提起とその解法という情報価値を持つ情報に帰結しないかというのが今日の括り。
壁に貼ってあるダイソーの100円の日本地図を写真に収めておく。