本棚の中には未読の本がある。流行りのマンガくらい抑えとかなきゃね!と思ってコンビニで買ったハガレンもそのひとつだ。1冊550円。これを何気なく買えるのが国家錬金術師、もとい国家資格である情報処理技術者なのだろう。
ちょうど俺がトータルコンピューターサービス有限会社フリーライフに入社したのが2001年頃だ。その頃は既に金髪では無かったが、試験に行った頃は金髪だった。満点合格だったと言っているが、まあ午前100点午後95点の成績である。2001年当時、まだまだ世の中ではというか関西圏ではコンピュータは得体の知れないモノ。「お金持ってるなぁ、仕事は何?」「コンピュータ関連です」「コンピュータって何で儲かるの?あんなもんコピーしたらタダなんちゃうん?」という会話を何度したか。
そのコンピュータを操って何故かお金を持っているさまを世間の噂とマンガのはやりに乗っかって「ああ、マンガの主役にされたのか」マンガもゲームも好きだったしな、とは思うものの、この頃はマンガも読んでいなかった。
それで多分これコンビニの復刊モノだと思うんだけど、世間とあまりに感覚がズレていて、マンガのひとつでも読んでおかなきゃとポンと買って、ちょっと読んで放った。
しかしまあ、メガネをかけて読み直し、また疲れ、もういちどメガネなしで読むとちょっと話が入って来た。ファンタジーの舞台とか時代設定に入って行くのがしんどいのだが、アルフォンス・エルリックという名前からしてミュシャと何か関係あるのかとか、エルリックサーガもそういや読めてないなという思念がうごめいてマンガから思考が離れる。
その中で、恋人を失ったロゼが宗教の蘇生を信じていて、アルフォンスが元素をつらつらと並べて人間を形作る元素はもう知られているが、組み合わせて錬成できたものはまだいないというような皮肉な台詞をのシーンで掴まれた。もうちょっと読んだ。
ファンタジーと思っていたが、宗教と錬金術師が戦うのかなぁ、とか思ったところでまた続きは今度でいいやとなった。
あとは読書というとアクロイド殺しをちびちびと読み進めて440ページ中340ページ24章の19章というところだが、その辺で新しい登場人物が出て来てシラケて来る。まあ頑張って読むかぁ、と思うが放ってある。
そして本棚の整理をする中で出て来て驚いたのが「論語」である。これ読んだんだよなぁ、読んだ記憶はあるし後輩に薦めるくらいだったが、さっぱり覚えておらず最初のページを読んで感動するなどした。46歳だから20年も前の読書となると本当に何ひとつ覚えていなかったりする。
そういう読書をして眠りにつくと、奇妙な夢をみて起きてから過去のトラウマ体験と向き合えた。あまりに傷ついて思いだしたくなかった出来事をほじくり返して思いだして考える。ゲーセンで絡んでつるんでいた連中にはユング心理学の本に心当たりがあり、だますつもりで接してきていたのは明らかである。
まあ、そういう俺もゲーセンで見つけたその貧しそうな人にコンビニの菓子パンやミルクティーを分け与えたことがあるのだが、それは恩に着るわけではなくユング心理学的に俺が桃太郎になり切っているから、お供の犬猿雉のフリをしつつ、俺が背が高くケンカにはその頃は別に強くは無かったかもだが、ゲーセンで群れれば他から絡まれることが無くなっていた。裏切ったとかそういうことではない。最初から仲間になどなっていなくて利用されただけで、それは家族ではない他人があつまる都会では当たり前なのだ。大阪にも行かなくなったな。電車賃が往復で1200円を今は超えるのではと思う。
まあ、桃太郎を自己の中に見出すとすると、どこかに倒すべき鬼がいてくれないといけない。ゲーセンの強い他の客というのが居れば簡単にそれを鬼と見立てたが、いつからかその感覚はゲーセンで直接会う人からメディアの人間が本丸であるようで、自身もこうしてブログというオウンドメディアを持つ以上は誰かにとっての鬼かもしれず、そして倒そうにもまず探さないと見つからない。
探して倒すというとドラクエであるが、王様や竜王の城への地図があるわけでもないし、自分が育つために都合よくやられてくれるスライムも無い。ルイーダの酒場と旅の仲間の真似事なら出来るが、やっていることを客観的に現代社会に投影するとならず者で集まってゲーセンに出入りして近所の飲食店で奇声を上げたりするわけで、迷惑この上ない。中に泥棒が混ざって一味と思われることすらあった。
そうすると鋼の錬金術師も読み込んでまた変な世界に入り込まなきゃ進まないのかと思うと、引いて読まなくなるのだ。大体の本は作家の妄想であって、読むに値しない。ハウツーなどの実用書を多く読むようになり、だからして何らかの作品性を伴なった感情への共感は失われていく。
実用と言っても現実世界での俺の行動量は少なくなっており、まあハガレンが出てきたのは部屋の掃除と本棚の整理が進んだからであり、意味の分からない本でも先に読むに値しないと書いてしまったが、読んでみたいと思う以上はその時は買うに値したわけではある。情報はどんどん作られて頒布されてゆく。付いて行くために、社会の話題になっている本の読書が必要だとか思い始めると、それが反対に孤独の入り口なのだ。
相手が読んでいるか分からないマンガの話を当たり前のようにするのが障害だと思う。まあ、俺のストII談義もその意味ではそうなのであろうな。