アーマードコアネクサスのチーム戦をやってみたよ!

 まあミッション1周してアリーナの1位にも勝率2割ということで、あとは勝率アップか装備集めでちょっと退屈かなーと思っていたアーマードコアネクサス。

 それでまあ対戦モードでもまたやろうとすると「TEAM」の4文字に気が付いて・・・


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 何と2対1と2対2のチーム戦で遊べることが発覚(俺が気付かなかっただけだが)

 楽しかったのよ、チーム戦。5~6回やったら飽きたけど。多分またやる。

 兵装的に1対1の打ち合いでは火力負けで厳しいなと思っていたような装備でも、2対2なら何だかんだ使い道があったりして、まあ負けイコール使い道がないって事でも無いんだろうけど、そりゃ弱い装備同士でやるのと強い装備同士でやるのが相対的にあまり変わらないとして、タイマンで上を目指して兵装が良くなって良い兵装で下を負かしたところで装備が強くなったのは分かっても自分が上手くなるわけではない、みたいの、だけどまあ、格下とでも相手の弾を少しでも喰らわないようにやると上手くはなるんだけど、そういうのチーム戦になってみて、一気に出来ることが増えた感じがします。

 僚機を放っておくと特攻してしまって相手2体にハチの巣にされてすぐまた1対2になるとか、轟のような強いACを相手に2対1で遊ぶとか、色々出来ます。

 ただまあ、チームメイトは既成機体から選んで、自分はミッション装備っての、自分でも既成機体を選べたらバーチャロンぽく手軽に遊べるのにナーとは思いました。

 あとはタニタカップバーチャロンの大会動画を2024年開幕試合ライデン対バルバスバウだけ観戦しました。バーチャロンも無印とオラタンが1対1でフォースが2対2だから、これもアーマードコアで何とかなる!(のか?)

 出来ることがまた増えて、また何から取りかかればよいか良く分からなくなる。

 唐突だが、人生とは何かということを取り留めも無く考えてしまう前に、近い目標を作ってそれを達成する喜びを得るというサイクルにハマって、昨日まではジノーヴィーに勝ち越すまでやる!みたいなことに気を奪われていた。

 それはそれで目標になって「鉄拳5をブライアンで鉄拳王までやる」みたいのも目標。けど、その目標には同段勝ち越しが条件で、自分の得意キャラの同段を相手にすればよく、またズルをするならEASYモードで、同段負けを電プチしても良い。

 ただ、それでは鉄拳王にはなっても何だかなーという不満が残り、その意味で称号を鉄拳王にするのは用意されたかりそめの目標で、俺の本願はゲーセンで連戦連勝で勝ち続けて台に100円玉がジャラジャラ入るあの喜びで、それをまた安易に目的化するとパチスロ北斗の拳になってしまう。

 そうすると、最近の俺の消費傾向は「節約」でこれは貯金という目標があるからだが、それも飽きて来て、そこに新しいゲームが購買意欲を掻き立てて来る。

 その中で、ブライアンで鉄拳5をやっていると、試合の中に小さな目標を見つけていくのだが、鉄拳王になることをさらに細分化してアキレスと亀みたく、小さな目標に向かいながらそれを細分化してまた小さな喜びを見つけて楽しむという事に、提示された新しい目標しか見いだせないのなら、それは結局人生を浪費している気分すらした。

 「ああ、もうゲームは十分に勝っているのかな」と思うと、しがみつぶしたゲームがガムであろうとスルメであろうと、味が無くなっても噛んでいれば顎の体操にはなる程度の楽しみではないかというような、それはちょっと言い過ぎか。

 でもね、負けが込んでた時にブライアンで勝って死体蹴りではなく勝った後のマッハパンチが快感ではあったりするのよね。バシコーンって音が気持ちいいのは変わらず。

 んでまた、MTGのデッキもちょっといじる。多くのジレンマを抱えながら、ひとつづつ解きほぐしてきた今のデッキは確実に昔より強い。それで充分ではある。

 けど根源的に何がそんなに勝ちたい原因なのかというと、両親が褒めないタイプだった、かけっこが遅かったなど幼少期のことを思い出して根治をはかるみたいなのも昔やって、十分に自分を褒めて、何ならコンビニにタバコを買いに行くときに道を思いっきり走ってみてかけっこの事も克服しようとしたら街中で走ると泥棒が逃げているみたいに脇の人が見るっていう、この暮らしの中でかけっこは遅く育ったのだろうと。

 そうすると、生育環境による得手不得手を超克した高い自意識が俺にはあるはずなのだが、自信とか達成感みたいなのも人生とは何かという大テーマに対しては一里塚にすぎず、それは忘却によってのみ克服される心理状態ではないかとも考える。

 だからすることが多すぎるアーマードコアは臨む前に「今日は何をやろう」となるのが、ちょっと弱いかなって気もする。何のためにをその間に思いだしてしまうからだ。

 それはロード時間のあるプレステ以降のゲーム機全てにおいて言える。パッと作ファミコン、それ自体は最近のゲームからすると単純で意味が薄いようで、忘却装置としてはとても優秀だったなと。ちょっとした気分転換にゲームをする。その意味では俺にとってGBAやDSのほうが役立つ時がある。

 総プレイ時間みたいなもので見ると3DSやPS2のほうがずーっと多いんだけどね。遊んでいる間にデジタルの中に世界を見出して、それが自分の心象風景になるって意味では新しいスペックの大きいゲーム機の方がずっと機能しているんだ。

 庭でブライアンのLKRPLPRPを自分の体で出来るか、みたいなこと高校の同級生の木村がそういうタイプだったな。道場の息子だった。でも進学校。今何してんだろ。

 そうすると、俺にはガンダムとかACてかバーチャロンツインスティックにも「ロボに乗りたい」みたいな夢って多分あんま無くて、プラレス三四郎みたく、物心ついたら部屋にロボットのオモチャがあって、LSIゲームで遊んで、レゴブロックのような箱庭で育ったので、天から見た征服感みたいなのをファミコンのドット絵のちっこいキャラを天から引きで見るような感性なんだよな。それは高校の時に体育でサッカーをやった時にサッカー部よりパスの見通しが良いことでちょっと分かった。

 当然、アーマードコアも2対2のほうが断然戦績が良い。まあ慣れてからやっているのと、機体差などもあるだろうが、遊びやすい。

 得意分野を活かすために、無益な団体戦を演出している感じすらある。将棋もそうだ。畑仕事をしてメシを食うものからすると、全く意味のない遊びで人生が満ちている。いや、満たされない思いが拭い去れない。けど畑仕事はしんどいから、農家以外の仕事を探している俺にはマツゲンスーパーのPB商品の食パンの袋に描かれた麦穂が秋の実りを思わせてくれるものだ。季節感も街路樹でしか感じられない。星も見ない。

 ああ悲しきデジタル世界の覇王よ。リアルを手に入れろ!どんなリアルが欲しいんだろうと想像で先回りするから、そこで取り留めも無く循環論法に陥る。これが哲学の罠か。若い哲学者なんて、土台世界を知らぬものなのよ。

 ただまあ、矢田山の自然に囲まれた奈良学園で山の自然にどれだけ触れたかというと、自転車で坂を下ってゲーセンに向かうのに必死だったので、座学の勉強をやり直すより、山に入って自然と触れ合うほうが面白いかもって思いながらも、虫刺されとかかぶれがあって、決して自然とは人にやさしいだけでも無いという事は分かっている。

 まあモンハンはその意味で楽しいゲームだった。どこで飽きてしまったのだろうな。

 子供の頃、校庭の植木の周りでドングリを拾うだけでも楽しかったを思いだした。

 ただ、琵琶湖で溺れた経験が何となく俺を自然の海から遠ざける。虫刺されも先に書いたが、自然と触れ合うための最低限のライフセーブは必要で、それがキャンプ男のモテ要因なのだろうとも思う。

 このインドアな感じがインドのヨギーな感じであって、けど仏教を仏教として完成させるのはそれは自然と一体であって、個室空間では無を感じられない。

 その意味では、子供の頃は勉強部屋に閉じ込められて逃げて外に出るのが夢だった。

 ただ、俺が足と電車で行く先は何処も人の住処である街中で、それが航空機とタクシーで行ったアメリカですら砂漠は通り道であっても人の住処であった。人間関係の存在する旅だったと思い返す。一人旅と言っても電車では運転手さんと車掌さんと乗客がいるだろう。そして孤独はドアを閉ざして人を遮っているだけで、やはり近くに人はいて、監視されているような感覚はどこに行っても拭い去れない。

 だが反対にひとりで生きられるだろうかと考えると、そんなシチュエーションを想定した準備や訓練などはリュックの中にカロリーメイトを入れておくくらいしかしたことが無い。

 だいぶアーマードコアから脱線した。ただ、鉄拳5のブライアンで鉄拳王になるという小さな目標を立てて人生を見失うという悪循環からは少し抜け出しただろう。それで良しとする。


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