中野信子さんの「ペルソナ」読み始めました

 まあ読書ブログというと普通は読了してから感想を書くものですが、日記として付けている部分もあり、俺の読書習慣が乱読であって本棚とか机にどんどん本を並べて色々な本を読みたいだけ読んでという流れなので、例えばもう10年以上「アクロイド殺し」を読了できないまま今年は20章まで読み進めてそこで飽きて放っているわけですが、そのくせもっと分厚い世界史の参考書は全部読み終わっていて、ゲームでも途中で置いてあるものが色々あります。

 人から、特にご年配から「一個ずつちゃんと終わらせろ」みたくお叱りを受けることもあるのですが、俺がゲームで勝つと「何故か知りたい」みたく尋ねられて仕方がないからこのブログで執筆を始めたのであって、1本ずつじっくりと言われましてもストIIターボは速いゲームですし、じっくり待っていたら削られたり投げられたりして負けると思います。人間みな平等で同じことをしたら同じように出来るという観点に読者がもし立つなら、俺の生活習慣も真似られるように晒してみようという実験のようなものです。例えば、俺よりギターが上手い人がいる中で言うのもはばかられるかとは思いますが「あなたはギターが弾けますか?」と。

 この「今日はギターを弾いた」というような文章ほど読んで詰まらないものはなく、中野信子さんの本の中にも「んなカネあるかコンチクショウ!」と思うような趣味に対する言及があり、そこで感情移入できないので一旦閉じたわけですが、共感できないものを辛抱して読むと恐らくそこにはある種の無視か想像が生まれるわけです。だからちょっとした言い回しに対して読者が誤解して「ホントにそんな事が書いてあるか?」と思うような読み方をされている人が実は世の中にはたくさんいらっしゃる。

 確かに、文筆の一角にはその錯覚を利用した回りくどく読者にそうと暗示させる書き回しもあって、とくにそれが読者本人のナルシシズムに成れば問題ないのですが、筆者像が明らかな場合に嫉妬や反発や嫌いの対象となり得ることもあるわけです。

 てか、そうです俺は腹が立っています。教えを乞うものが例えば乞うて見せて語るのを皆でバカの見物をするためにひとりそうして見せただけかも知れませんが、教えを乞う格好をしてもらったから頑張って書いているその文筆から見える物事に対する態度に対してよそから年長というだけの理由でお叱りが飛ぶという若い文筆家みなが抱えている同じ悩みを中野信子さんの本の冒頭で少し和らげて頂いたのですが、その中野信子さんが次の章でスキューバーダイビングの自慢をご披露されていて、興醒めでした。

 結構、色々なことを体験してきたつもりでしたが、そこは経験が無く感情移入出来なかった!悔しい。んで古本屋のネットオフでぽちくりしたこの本は書道の墨汁のようなにおいが付いていて、またアクロイド殺しは心斎橋あたりのブックオフで100円で買ったものなんですが、最初から痛みがひどくブックカバーが無くシミがあり、どういう本の扱いをされたかは分かりませんが、手に取って読んでいるとたまにその汚さにばい菌が付いている気がしてアレルギーの肌荒れが出るんです。アルコール消毒を自分でしましたし、何か菌がいるわけで無いとも思いますが「なんか汚い」と思い始めてから、頑張って読んでから捨てるか片付けるかしようと思って早数年経ちまだ読み終わりません。

 というか、読書してその世界に入る以前に自分もこのブログを毎日書いていて、読む量と書く量を比較して考えると、俺の体験をくまなく伝えるためには読んだ本を全て書き写すのも著作権法違反かもだし、勝負師として先読みが必要なのに今読んでいる本を伝えて俺の読むのが遅く先に読み終わって構えられると反対に自分が負けることになりながら、それでも勝ち過ぎて殺されるよりは負けてやる方が良いかと今の買ってすぐ読んでいるものを公開する、ゲームも買ったら遊び始めるときから公開する、このスタンスでやらせてもらっているのですが、モンハンに関してもPSPの本体ごと買った日から公開してプレイしているのに「いつの間に」とまたお叱りを受ける。理不尽ですが、年功序列をはじめとする体制の恐ろしさに負けています。

 大体からして「何故か」を問う前に「何か」が分かっていない場合が理解の一歩として必要なわけです。ソクラテスは問う。それは何かと。結局何も分からないではないかと言われるとそれはソクラテスが分からないのが悪く、言葉は二人の人間での共通認識として初めて意味を持ち、まずは二人で「我々はこれを木と呼ぶ」みたいなことから始めないといけないと思っています。木と言っても楓やサクラやモミの木に色々あるかとは思いますが、木の立っているところに指差して「これが木ね」という共通認識。

 そりゃ「ガイルのしゃがみ中パンチ」も分からないところから、ストIIの攻略が始まっているのがどうしようもないわけです。それはゲームとして互いが意思決定して勝敗を競う以前の定義域の問題になりますから「フレーム」とか「判定」とか、野球でフォアボールを投げられてから「え?打たせてもらえないの?」とかもっと言うとボール球に三振してから「当たるところに投げろよ」と文句を言って「なんで負けたんだ俺の方が打てるのに」とか言っているようなもんだと俺は思います。

 本当に、まず技を出したらキャラのアニメがどう遷移して、例えばボッ立ちの相手が無防備で、それに対して技がどれくらいの距離で当たるのかという把握からして「出来ていない」という人がゲームセンターのほとんどです。相手に当たるように技を出すとダメージが入りますし、ガードでもヒットバックと言って受けた方がしばらくガード硬化で技出し操作不能になる仕様があるんですね。だからヒットガードを問わず「まず相手の体に当てる」と安全で、対して空ぶるとヒットバックは無いわけで、技を後から繰り出す相手に無防備を晒してしまうんです。これが春麗のしゃがみ中キックとかなら、無防備時間が非常に短く安全ですが、他キャラのしゃがみ大キックなど空振りすると、見逃さずスキに反撃を入れる。刹那の駆け引きです。これを体得するためには相手キャラのアニメをひとつ把握している必要がある。

 その上で、当たるように技を出すために遠くから歩いて踏み込んでから出す「差し込み」があり、差し込みを狙うと無防備に歩くモーションがあるわけで「置き」が勝つわけです。だから踏み込むふりをして、相手のリーチギリギリ手前で止まり「置き」を誘って空振りを狙い、お釣りを入れる。この簡単な駆け引きが所謂足払い戦です。

 このリーチと踏みこみ量の加減を武道に習って「間合い」と総称していますが「間合い」の前に「判定」が分かっていない。もう何から始めたらと思うのですが、これくらい書いたら一端は理解されるものと信じて本のように頑張って書くわけですが、ゲーム機とか写真が無いとやっぱり何も分からないというのが仕方のないところです。

 そうすると中野信子先生の本は結構に難しい目の言葉がポンと出て、ちょっとした解説も入って俺には読みやすいわけですが、それは読者にとって既知の概念が読みやすいという事で、冒頭は俺ら世代へのサービスだと思います。そこへスキューバダイビングの自慢で突き放す。

 俺も書きたいわ!ストIIの武勇伝もギターの弾き語りも、自慢したいわ!でもそれを読者体験として消化できるように書こうと思ったら、手に取ってもらわないといけないし、文筆としてもどのくらい前提が必要かと思うと気が遠くなるわ。

 団塊ジュニア、受験戦争、氷河期世代の同年代で勝ち組とされる東大卒の中野信子先生でも人生が意のままというわけではなく翻弄される部分もある。そこは共感のために書かれている注文通りに共感できる。けどスキューバダイビングは無理です。いややろうと思えばそういう事にお金を使って体験する方が読書より色々深まるかも知れませんね。そこで読書体験が途切れてしまった事が残念です。

 そこから続く新たな知の啓きがあるのかもなので、無視か想像で読み進めるとは思いますが、あとは昨晩の桃鉄が6年で止まっており、相手CPUの中で最も段位の高い「うまオニ」さんがまだ最下位に甘んじており、残りの14年に際して布石となる手を打っている、例えば目的地レースをしている3人に対して目的外の土地で資産を増やしていないかなど、要警戒、要注意の動きをしていないか、20年経って負けてみてから気付いて負けて反省するのではなく、この休憩を挟んでいる間にもゲームの成り行きや全体像を考えて、勝つための手を打つ。

 勝負して、負けた方が勝った方に教えを乞うたとして、真実を教えてしまって五分なり負け手になることを敢えて受け入れて文筆をしているのに騙されたように読んだ人が怒ってしまう。これでは反対だと思うんです。ウソでも分かることを教えてもらって有難がってまた負けてお金をもらえるというのが普通の勝負事ですから、俺も教室なりお金を取れる囲いを準備してから教える側に回るべきかと思いましたが、ネットでタダでやっているわけです。

 それでも、散々書いたような不満はあっても、強い勝負師に対する不可解さみたいなのは最近ないですよね。結構スッキリした頭で分かるんだけど「そこまではやりたくないよな」と思うようなメニューが並んでいて。俺に尋ねてくる人もきっとそうだと思うと、もう教えるなんて烏滸がましい事はしなくて良いんだとも思ってます。

 今日はちょっとムカついた勢いで書いてみました。認識合わせが進むと良いのですが。

 


🄫1999-2023 id:karmen