まあ、ブログ画面を開いて真っ白なところにタイピングしていくのは悪癖と言うか、考えて書いてから打つのではなく打ち始めるところから考える癖が付いたせいで、俺は昔はしゃべくりだったが口で話すのではなく黙々と字を打つ生き物に変わった。
せめて書いていたら、また話す言葉も出るかもだから、そうしてみようとノートに書いた。法の下の平等と受験戦争の機会の平等とは何だったのか。

しかし現実には貧富の格差はあり、その主因が学歴であると考えられていた。
法の下の平等とは「やっていいこと、悪いことは誰しも同じである」ということだが、身近なところでは飲酒喫煙は二十歳になってから(年齢変わったっけ)で、自動車の運転には免許がいる。医師、薬剤師、弁護士、建築士などは資格制であり、大半は大卒資格がいる。これは診療行為やお薬の販売に裁判の弁護に高層ビルの建築などは「やっていいこと、悪いことに一定の資格規律を設けて、やって良い人と悪い人に分けること」が法律の条文によって定められているからである。
従って、大卒のほうがお金持ちになる前の時代から考えると、その貧富は資格の有無がひとつ。もうひとつは、資本主義による資本家(株主)雇用者(社長)被雇用者(従業員)の格差でもある。しかし本論では基本的に有資格者を受験で目指すという観点に立つ。
有資格者が金持ちだったのは独占資格であったからである。資格者はやってよく、無資格者はやってはいけないからだ。しかし、そうではなくザックリ「大卒」を皆が目指す中で医者や弁護士の子供が進学校から世襲制ではなくなった仕事のために大学の特定の学部を目指す中で、強い意志を子供ながらに持って国家資格をゴールに勉強したものがどれほどいただろう。みな、そこそこの大学を出ていたら良い会社に入れる被雇用者になることくらいしか考えていなかったのではないだろうか。
それで汚い図だがノートに書いたように、シーソーがあって、人数の少ない方が軽くて高く、人数の多い方が多くて重いシーソーから、高い方を目指して皆が移動したら、少なくて軽い方だったシーソーが反対に傾き、高い学歴でも競争が起こったのだ。
そして貧富はまた大多数の思ったものとは違った格好に分断され、昨今の野党共闘の選挙である。そもそも、日本国憲法で定められる法の下の平等は独占資格の存在によって、限定的に破綻している。そして受験戦争とはその間違ったと言って良いかは分からないが、歪んだ法を受け入れての競争だったのである。その競争が終わってみてから、平等とは何だったのか分からなくなり政治に責任があるという事になるのだが、あの時代に誰が政治を志して学んだであろうか。
はじめから、平等を目指すのではなく、機会の平等即ち結果の不平等を受け入れての受験戦争ではなかったのだろうか。そのルールに騙された事を悔いずに、若い世代に同じく受験を強いている親世代に選挙くらいで政治が変えられるのだろうか。