また哲学から考え直すこととした

 最近、数学を疑い始めている。数というものが如何に如何わしいものか。

 そもそも俺はLSIゲームやファミコンからスターソルジャー高橋名人の影響を経てストIIターボ国技館'93への出場から、ゲーム業界志望で大学受験に挑み、二浪(実際には勉強よりバイトだったが)して親に学校行けと言われて近所の書店でパンフレットをもらってきて専門学校に進んだ。そこで習ったプログラミングが高校で悩んだ哲学のデカルト的合理と勉強はしたが最後まで解けない問題の残った数学に対して、俺がプログラムを正しく組めばあの謎の数式が解けて完全な解が出るのではないかと考えた。

 ゲーム業界と呼ぶには端くれ過ぎるメディックス社は大阪に位置することでカプコン社と外から間違われるのだが、会社規模的には「ぷよぷよ」がヒットする前のコンパイル社のような小さな会社で「ここではゲームは作れない」と思って辞めた。

 だが、それでも実務者である先輩に教えてもらったことは転職後(転職と言っても専門学校時に資格を取っていたことをハロワの職員さんに知らせると即案内でユニオンシステムが決まった)それこそまさに数学をプログラムで解く世界で設計事務所向けの構造計算システムだったのだが、俺の配属は開発部内でも計算部ではなく入出力だった。

 しかし、冷静に考えると数の計算には四則演算以外の方法は無いし、それがコンピュータになって二進数になってもAND、OR、NOT、XOR以外の演算は無いのである。

 そうすると、実は俺の哲学はデカルトの「我思うゆえに我あり」から始まる論理学の体系から出発していて、デカルトの生涯を見ても少年期は病弱でベッドで寝て考えていたらしい。無と空想からの演繹なのだ。

 ここをソクラテスすると「我とは何か」と問うてみて「思う主体」であるとすると、その哲学は別の言い方をすると唯心論になる。すると数とは何かというと考え方を考えたときに原子論がそうであるように思考をそれ以上細かくつぶせないイデアとして計算機で言うと0と1で、唯物論的に計算機を使うのは分かるのだが、思う主体が唯心論であるわけで外部に計算機を認めてそれに計算を問うと、占いにすがって騙されるように我とは何かが計算機と一体でないと分からない事になってしまう気がした。

 そうすると、俺は少なくとも瞑想して我を思う以外に計算機以外の世界も認めているわけで、原子論分子論は何となく分かるとして、世界の最小単位は数字の1なのかというと、原子1個は球体のようなものと考えられている時に、その球体には半径が無いとおかしいことになり、半径があるならその球より小さいものがあるはずで、それを認める立場が原子論ではなく量子力学とかまた如何わしいものになるのではないだろうか。

 それがだよ、何とカプコン社のストリートファイターII及び関連作品の研究を30年もやっちまったんだよ。遊んでいた、これはもう放蕩息子としか言いようがない。

 そのストリートファイターIIにも対戦の勝ち負けがあり、勝った負けたを概算2分の1で確率計算してみたら、実は演繹的にはそれでおしまいのはずである。では何故そうならないかというと、台の実存を認めて対戦相手なる他人の存在を認めて勝った負けたに一喜一憂して、心理的にも優越感のために大事なお金を損してまで研究と称してあるいは時に練習と称してストイックだと自己陶酔して打ち込んできたのである。

 これらのどこが哲学であろうかと。いまいちど台や相手を疑うべきである。または信ずるべきである。とかくソクラテスデカルトはほどほどにライプニッツなども読み進めるのだ。俺は現代に生きていて、学んでいるのは過去の考え方を踏襲的に知るべきであるからだ。

 確かに俺は数学の問題を解いていた。それは数学が分かるというより、実体験が乏しく座学の中に数学的論理整合の取れた世界しか分からず、矛盾のあるものを許容してひとまず覚えるという学習法を嫌ったからだろう。覚えてみてから考える世界に遊びで覚えたストIIドラクエの世界が広がって、その範囲の中で想像を広げてきたわけだ。

 当然、映像、音楽、数だけで行くとその道にさらなる高みはあれ人並みかそれ以上に専門家的ではあるとは思う。けど哲学だけで考えると、センター受験で点取りでかじったくらいであるわけで、それはまあ数学も似たり寄ったりで、数とは何であるか問い直すと先に書いたようにモノを考えるための不可分な単位としてのイデアであるわけで、じゃあ他の全ても数で考えているかというと文字で考えている部分も大多数であり、漢字とは何かというと象形文字から出発していて、それは現代では漫画アニメに進化しており、ぼーっと見ているだけで考えていないのと活字を読むのにどれくらいの差があるのか、実はよく分からなくなってきている。

 そこに実存が無くても文字になって目に入ったら人は見て思い、声になったら人は聴いて思う。そうすると話者や筆者から読者や視聴者の思いの中に何らかのイデアが出来上がる。その疎通性には言語学習と母語と外国語の違いなども考えられるが、少なくとも数ならば国境や学歴の違いを超えて間違いのないものであるみたく考えるのは各国の義務教育でアラビア数字の算数が必修化されているからで、未就学児童から見た数字のようなものを何だろうと再び疑った時にまた何かが分からなくなり始める。

 今朝は頭痛でロキソニンを飲んだ。多分昨日あたりから考えすぎなんだ。


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