俺の家ゲーの取り組みは、コンピュータ勝ち抜きボス戦までを通すこと。
対して、ゲーセンに通っていた頃は、大会(対人大会)の優勝がお題目で、プレイヤーキャラにならないボスは相手しても無駄と捨てていた。
しかし、家でひとりでやるのが木偶相手のトレモも理解されず、コンピュータ戦をやっている音が商店街に響き渡り、それと戦って周囲に音を出すのが毎日の仕事で、主戦場は女の噂という事になった。
それで、毎日やっているとまあ「毎日頑張っている」となるが、何年もやると「毎日同じ音で飽きる」ということになり、並行してやっているギターの稽古と、テレビの音と、音だけが部屋から漏れ聞こえて、そして通りかかる人の話し声が気になる。
それが行き着く先は音と噂だけで良いなら、楽器とゲームでは無くても良いというか、ウソを許せば大会も八百長で良いわけで、声聞界という女の世界の終着点に来た。
伯母さんは「ホントとウソって誰かと話を合わせる以外に何があるの?」というし、キューピー堂のおばちゃん(叔母でも伯母でもなく大阪のおばちゃん的なおばちゃん)はソクラテスを覚えてから「なんで?」攻めをしてきて最後には黙りこくって編み物だけをするようになり、しまいに店には息子だけとなって見なくなった。
俺はかつて誰かに理解されたいと思っていただろうが、それも言葉を交わすから、語学哲学でモノを考えるから言葉にならないものが理解できないという世界なのだ。
それに対して、井上との格闘ゲームは奴隷道徳の習得であった。誰も見ていなくても神は見ていると考えるか、神などおらず他人の目があると考えるか、神はつまるところ自分自身の心の中に宿っているかどうかであって、毎日格闘ゲームの練習をしていればやがて大会に出られて優勝して名声やお金が手に入る。
この夢には「そうではない辛い今」が必要なのだ。周囲からある程度理解され、居場所も寝床もあり、ご飯も毎日食べられる。俺の今の境地は、まあ過去に夢見たものとは違うかもしれないが、なかなかに幸福なのである。そこで格闘ゲームをもう一度やるのは、テレビのニュースもギターの稽古も晩酌の楽しみも捨てることで、努力が実ると信じて打ち込むためには今の幸せを捨てなくてはならない。そこが矛盾する。
結局は求めているのは幸福に慣れて普通になった幸福よりも高いレベルの満足だが、ただモリガンでトレモをしてチェーンダークネスの練習をしてみると、あの頃を精緻に思い出し、ゲームしかないという視野狭窄に自分を陥れて奴隷の気分を味わうことで神を信じる気持ちをどこか理解できたと思っている。
当然、日本の明るく楽しい家庭にサバイバルホラーなどの怖いゲーム、または怖い映画が起伏のために必要な番組なのか、それとも放送者の悪趣味なのか、幸福のためには比較的な辛さや苦労を知っておくべきという処世訓なのかもしれない。
そうすると、トッププレイヤーには嫉妬ではなく応援と賞賛を惜しみなく送る。そこには幾許かの感情のジレンマがあり、野球場ではビールの売り子がいるらしいな。
まあ、今日のところはこのくらいで勘弁してやろうってやつだ。

