ビデオカメラもボイスレコーダーもある現代において文筆をするというのは単に貧乏性なのではないかと思うのですが、ただ小中学校の視聴覚室が貧しいという理由で義務教育が活字中心の時代に育ち、照ノ富士前横綱が親方となって弟子が負けると「教え方悪かったかなと思ってしまう事ありますね」と仰っていましたが、学校の先生なんてのも生徒の卒業後の進退について自責の念に駆られることがあるようですが、学校の先生って教科書に従って教えているわけで、半分以上は著者責任だと思うので、俺もこうしてネットで文筆を披露して読者がいるってのは一定の責任を感じるわけです。
その中で、文字とは何かというとこと東洋の日本では漢字から簡略体として仮名が生まれた歴史があり、漢字の成り立ちは象形文字なので、檸檬くらい難しい漢字になるとサインペンの黒と黄色で絵を描く方が簡単ではないかと思うし、ましてやその文字を持ってして文を書き聖書くらいの量になってしまったら、混沌たる自然界から人間が抽象を切り取り意思疎通するのとは反対に、文字で育った人間に創造された神の世界を説く新しい世界が本の中に構築されて行ってしまうわけですよ。
それは難しい言葉ではなく易しい話し言葉で描かれたとしても、長編になると読破や理解が並大抵では及ばなくなってしまう。せっかく数えるのに便利なアラビア数字の算数を習ったのに、高校くらいで記号の意味もわからない数学を突破しないと理系の大学にも進めない。それはノイマン式コンピュータでも、論理回路から出発してAIまで育ってしまったわけで、人間社会の事の成り立ちから現世の中での成熟の過程に関して、何事もやさしく解きほぐすために記号化されたはずが、記号によって複雑な世界を表わそうとする中で記号が記号としてのやさしさを失ってゆくという意味では同じなのかも。
ビデオカメラもボイスレコーダーもある現代において文筆をするというのは単に貧乏性なのではないかと思うのですが、ただ小中学校の視聴覚室が貧しいという理由で義務教育が活字中心の時代に育ち、その頭で誰かは読んでくれると思って書き綴っております。
