今日は朝から朝日テレビのゴジュウジャーを見ました。
俺自身は科学の世紀の昭和の生まれなので、科学に対する憧れはあるのですが。
小学校の時には「個性を尊重する」という教育を受けたもので、対して受験となると画一的に正答を導かねばならず「誰もが同じようにすれば同じ結果が得られる」という科学を学ぶ上で没個性的になる事が出来ず、記述式の国語が高得点の生徒でした。
個性と科学は相容れず、科学的とは即ち没個性的で誰もが同じ結果を得られるという点に着眼するのはある個人がその体験に於いてなりたい人や勝ちたい相手がいて模倣するというプロセスを踏むからで、誰かに成り代わるということは本人のいる世界では即ち擬態した複製であり、その上で「科学の勝利」を謳うものがいるとすれば、それは殺人に等しい。だってオリジナルがいたら勝ったのではなく二番煎じになっただけだから。
その意味で科学者としてなおかつ倫理を重んじるなら、先人を尊重して「我々は歴史の中で代々継がれた科学の進歩の上に立っている一介の科学者に過ぎない」と、こうあるべきであるはずだと思うのです。
まあかくいう俺がくだらないことですが中学からゲームセンターに通いそこにあったストリートファイターIIでひとたび奈良で優勝して、しかし世はもっと広く国技館での大会や米国への輸出若しくはソフトウェアの転送と現地製造なのかもしれませんが、日本以外の世界にもストIIの台はあり、ストIII3rdの米遠征に帯同して現地でストIIもまだ稼働していることを知り、言葉が通じなくてもゲームを一緒に楽しんで通ずるものがあり、ゲームってすごい!という論者になりました。
しかし冷静になると、棒切れ1本でも本気で叩くのではなく、手加減したチャンバラ遊びであることをどうにか伝えられたら、外国人でも仲良くふざけ合えるかもしれない。ゲーム台にコインを入れてボタンを押しても画面の中のキャラが格闘するだけなので痛みはなく、だからして仲良くなれたのは基本的に富裕層で、最下層民にしてみれば30セントを取られたという風に根に持つものがいてもおかしくはない。
それでまあ客の座っている側の操るキャラが勝てば勝ちというのはゲーマー同士のルールで分かっているのですが、俺が勝てたのは俺の使用キャラがケンやガイルで、アメリカ国籍という設定のキャラでアメリカ人にもリュウや本田という日本キャラを使う人もいて、ショーアップされた大会でも人より画面に夢中の人は米国で米国のキャラが勝てばそれで良く、八百長なのか運なのか、はたまた中学から10年以上やっていた昔取った杵柄だったのか、勝たせてもらえたわけです。
ただまあ、勝負なのでバクチなので、それを客観的に再現しようとすると二者の協力でもって八百長的に再現するしか道はなく、俺の動きをマクロ的に記録して再現しても相手が違えば試合の成り行きは変わるし、裏切られて負けることもあると思うのです。
この点において、勝負事の科学としては「どちらが強いか」みたいな事はデータを客観視して期待値から演算するか勝敗が決したことを記録して統計するしかなく、科学を突き詰めるなら「誰がやっても同じ結果になる」という意味で同じキャラ同士で同じことをして、それでゲーム基板のプログラム上には引き分けが存在するので、抽選などが無ければ、同じことをしたら引き分けないとおかしいかもだけど、同キャラは両者の色が変わるので、しかも右側に座るのと左側に座るのでは違うので、同じことを色を気にせず対偶にすると引き分ける。と、こうなるはずなんです。
そうではなく同じ配色のキャラで赤の他人が俺と同じ動きをして、俺より目立つと、俺としては動きを真似して盗まれたという被害感情が芽生えていました。
ただ、これは科学者らしくは無いなと。没個性的にスーツに白衣にメガネをかけて、大学とか研究所にいたら芸能人でも博士に見える。その意味で、多くの人から俺はスーツを着てオフィスビルに入っていく「会社員に見える人」でありながら、所属は外の会社にある派遣社員というやつで、それを言われるのがとても嫌でした。
けどまあ、いわゆる正社員にしてみたら、外から後から来た人に手柄を取られたり給料の元である工賃を取られるのは損なわけですから、その不満がネット陰口になったとして何ら不思議はないなと今では思います。
ただ、没個性的に勉強しても大学の椅子の数は決まっているわけで、制度のために足切りはあり、科学を謳う大学受験がそもそも誰もが同じように勉強しても入学者と落第者を分けてしまう性質のものであることも書き留めておきたいと思います。
個性は日本では明治以降の思想、源流をたどると西洋哲学なわけですが、科学はまた流派の違う学問で、それに神道や仏教に宮家に武家の名残はまだまだ日本文化の中で色濃く残っており、俺自身も蘭学から翻訳された自由や科学を受け継いで学んでいるわけです。それぞれは完全に混ざりあったり解け合ったりすることなく、源流の違いから対立思想となる部分もでてくるわけですが、そこに議論に余地はなく何故ならそれは俺が科学の立場を取るなら誰もが同じようにすれば同じ結果を得られるからで、個々の人間が主張をぶつけ合うディベートというのに幾許かの非科学性を感じるからです。
例えば自分に非があることを他者から言われると怒る人との付き合い方も、科学なら上手くやってのけないと成功とは言えず、子供のように「あの人はこういえば怒る」と決めてかかって怒らせて「ほらやっぱり」というのが科学的再現かというと、それは個性の現出に過ぎないと思うわけです。
ただまあ、俺が「壊れたカセットテープのよう」と揶揄されるほど同じことを語ったり、反対にカセットテープの音楽に聞き惚れたり、子供の言う悪口にいちいち腹を立てたり、もはや固定的な性質を持って他者からからかわれて気が狂ったという背景もまたあるわけです。
人間なので、弱って歳を取って、性格もちょっと変わったかもしれませんが、今となっては科学というのもある意味で社会的に成功をおさめた発明者への羨望でしかなく、実際的な科学というのは先に書いたように科学の勝利を謳えるような格好の良いものではなく、地道な研究と追試の繰り返しで、サラリーマンと変わらないような収入で職として科学を選んで食えるのは国が科学を後押しする制度を作ってその枠に入れているからであって、ウクライナのように農業を中心として武装した国家において科学者は依然と存在しても、政局的に戦争は回避できず、人間同士が勝った負けたを競うと生死すら軽んじられる威力を今の先端科学は持っている。非常に月並みな発想で、科学以前に槍一本から既に人は文明でもって他者を容易に殺してしまうわけですが。
その意味でも科学は倫理とセットでなくてはならず「科学の勝利」という慢心はあってはならないのだろうなとあらためて思った次第であります。
まあ、科学的に「他者から見て勝ったように見せた」という奇術を倫理的にどう捉えるかという問題ではありますが。実際、金銭や賞罰に於いて誰もが近いことをしても全く同じ結果には出来ない境界のある制度が日本だけではなく世界に無数にありますから。
