台所にあるパックごはんの賞味期限が半年以上過ぎていた。他にもレトルトカレーと冷蔵庫のハンバーグと鮭の瓶詰など、保存用に買って置いて日が経つものがある。
それでも保存食は多少過ぎても大丈夫というのと、食べ物を粗末にしたら罰が当たるという「食べる派」の考えと、消費期限を長く過ぎているわけだからという「捨てる派」の意見が自分の中でせめぎ合う。
パソコンを使ってAIに訪ねるとヤフー知恵袋からの参照が出て、取り留めもない質問にバカな回答が返って来るが、質問を変えて試すと、どうもレトルト食品というのは加熱処理と加圧密封で細菌の繁殖を抑えていることが長持ちの要因だが、それでも安全に食べられる期限には限りがあり、法律のために何年何月と印字しないといけなくて、余分を見ているとは思うが、どうも細菌は加熱で殺して密封して冷蔵とかしていても増えるときは増えて食中毒が起こることがあるようだ。
科学を信じるなら、食費の余裕もあるし食中毒リスクを考えると捨てる方が良い。
けど食べなければと思うのは「罰(ばち)」の恐ろしさの一点に尽きる。もったいないからというのは切れても、食べ物を粗末にすると罰が当たるというカードが切れない。
これは恐らく迷信を迷信だと断じた子供時代に強面の坊さんに脅された怖さや親に蔵に閉じ込められて真っ暗で出られなかったトラウマとかが罰の怖さとして身に染みているからだと思う。人罰が怖いのだ。家庭ごみとして賞味期限の過ぎたパックやレトルト食品を捨てたら、ゴミ袋や清掃センターで「あ、こいつ捨てたな」と分かり、そこから仏教徒とかで罰を罰として当てないと気がすまない信者が世の中にはいると思う。
ただ、大丈夫な可能性もありつつ、食中毒に当たる可能性を考えると、食中毒も悪化すると罰よりひどいわけで、今回は捨てるのは日延べしてそのまま置いて別のものを夕食とした。
それから積読消化で薬の本からキリスト教の聖水の成分について学び、そこでも奇跡の湧水が科学的には何の薬効も無いとされて宗教関係者とフランス政府が揉めた話などを読んだ。
ともすると、薬効の無いものでも効くと信じていると効くというプラセボ効果は一見すると科学的な知見だが、本人が効くと思っているという現象に対して読心術も不完全な今の科学で客観的に「効くと信じている」ということは外面的にしか観測できず、効くと思っていたら治るという科学の一端が実は非科学的で倫理への配慮であると言える。
これは罰という人罰にも言えるかというと、これは明確に罰を与えたなら観測可能で、だからこそ宗教家が刑事罰を受けるケースも過去事例があるが、効くと思ったら治るの裏に罰を受けると思ったら不安が災厄を生むというケースも科学的には立証できずとも、無いとも言えない問題ではあると思う。
ちなみに「学問は全て科学で説明できるか」というテーマで書こうと思っていたが、既に聖水のところで言ったように、人の思いまでは科学は及ばないところがあるわけで、非科学的だという非難を浴びることでも「じゃあ科学ならどうなのか」というと手の回らない部分はあると思う。例えば野生動物を捕まえる罠は物理的には分かるような構造で、まあ学べるところでは学べるのかもだが義務教育には無く、そうすると宗教が何らかの賞罰で人を律しているとして、それが科学的にどうなのか以前から存在するもので、これも義務教育では迷信と断じられがちだが、もっと秘匿された種があるだろう。
それでも、俺も信じるべくは宗教ではなく科学のほうではないかというと、自分の胸に手を当てて良く思い返すと、まだまだ奈良には神社仏閣が多く宗教に配慮して非科学的な行動を取っているものなのである。そうしないと明らかに危害が加えられる。大体親父の店のお客さんが神道や仏教の宗教家であったりするくらいだから。
そう、俺にとって宗教とは有り難いものというよりは、人罰を与えようとして来る危ないものなのだ。倫理的配慮なんてカッコいいものではなく、宗教家も同じ人間でトドメを刺すことはためらわれ、また否定的なことを言って敵に回すとどれくらい危害を受けるか計り知れないという空恐ろしさがあるのだ。キリスト教とてそうである。
そういうわけで、捨てるに捨てられないパックごはんとハンバーグとカレーをどうしてやろうかと悩みながら、科学的に処理できないかと考える方が建設的で、よしそうしよう袋ごと開けずにゴミ袋というのはやめておこうと、そう思ったそんだけの話。
まあその意味では宗教はつまるところ心の持ちようであるとするならば心が観察できない以上は神の領域でメンタルの訳語が精神であることもまた日本的ではあるがそういうことなのだろうな。天皇制政治だって王権神授説のようなものであるならば、血統的に宮家の末裔である俺が科学を信じて宗教を否定するってのも自己否定の論理だ。
宮澤郷介なんて名乗らずに一匹の猿のように生きられたら、というよりかは人間らしく生きたいと思う。いや人間らしくってか神様のように扱われたなら・・・って、今でもどこかしらの人から見たら神様のように見えているのだろうか。自問自答では出ない疑問だからどうしようもないが。まさに倫理的な問題であるわけだよな。
その意味で罰せられるというならば、そのわけを知って素直に受け入れようとする自分もまた心に同居しているわけだ。納得できないとは言い切れない自傷行為をしがち。
