理性と感情という相容れないものを混ぜ合わせるとそこには平静しかない。
音楽というのは難しいテーマで、絵を描くことはカメラの発明で代替されたが、音楽という芸術は自然の音を模することから人の手によって作られた楽器を使って様々の人為的な変化を伴なって現代に至っているのだと思う。
その中でも中世ヨーロッパの頃の音楽研究というのが時代的にすごいことで、現代でもその辺りから学ぶことが基礎となっているクラシックがある。だけど民族音楽とかも音楽だし、ラジオの発明と共に普及したドラムギターの軽音楽や日本のテレビで流れたフォークソングというのも、少なくとも自分の中には流れているし、一般的なものだ。
そういった音楽の中でも民意的に決まる流行歌やヒットチャートというのはあるが、それは売れた数を数えたものであるわけで、どうやったら曲が書けるかというと俺は自分で作って自己満足していた頃にはそれを鼻にかけて「たくさん聴いてある程度楽譜を読めるようになって、和音の構成を覚えて弾いていたら自然と降りてくる」というようなことを言っていた。
だが、やってみると俺は本当にそうなると思っているのだが、演奏や楽譜に無関心なまま「それでは分からない」という圧はすごく強かった。言葉にしないといけない。
それでも「5度」とかの音階語を分からない人に説明するのも無駄だと思うので、いつからか口を利かず黙々と弾いて歌うのみとなった。
いつしか、感情に任せて歌に思いを込めるのではなく、役者が芝居をするように文字通り演奏が板について来た。楽しくないが、こんな風に弾いて歌えばいいだろうという。当然楽しくないので、気になるのは何回再生されたかとか言う数字的な跳ね返りだけになる。受けを狙えばチョットは当たるし、自分の趣味を出せば暗くて相手にされない。
そして、自分でも感情が平板化してきて「こんな歌を歌いたい」という動機からして無くなってしまっているのに、それに長い時間を費やしたので、その技術の方向で仕事にならないかと考える悪循環に陥って来ている。
しかし、ヒット曲が書けないというのが悩みではなく、ただもう曲が書けないのではないかという感覚になってきた。浮かぶものは出来ているもの。楽しくないのに求められているのは分かって、かといって商売になるようなお金がもらえるわけでも無く、タダだから聞いてやろうとか、弾けるとか自慢気なのがムカつくから何か因縁を付けられて、機械で流している音では無いのかとか、そんな風に勘繰られて仕方なく弾く。
ここ最近はずっとそういうことの繰り返して、もう音楽ではなく俺にとって音である。その音を紡いで楽しむという行為を理性的に論理的に分かろうとすることで、根本から白紙に戻してしまっているのである。子供だって機嫌が良くなって歌う鼻歌があるだろう。それが作曲だというのに、大人には出来ないという人がいる。
否、俺も近頃出来なくなってしまっているのだ。それで勉強をやり直そうと昔買った音楽雑誌を手に取ると、裏表紙が所謂パソコン作曲ソフトの刊行当時の最高級品が載っていた。今でも買うお金は無いが、カタログの中には当時使っていたMacBookProのバンドルで使える講座も乗っていた。
「俺、こういうのが無いと出来ないのかな?」というのが悩みで始めたのがギターの独奏であるが、そのギターも定式をなぞるだけの作業となり、手癖になったコードを弾いてみて、崩してみて、それで充分悩んでいて作曲の試みとしてはしていると思うのだが、これと言ったものは降りてこず、毎日聞いている朝ドラ「あんぱん」のRADWIMPSの「賜物」をちょっと口ずさむ。これにギターで伴奏を付けられるか、といったところで悩んでいる。もちろん楽譜を手に入れれば出来るだろうが、そうではなく歌を聞いてそれに自分の力で編曲を組むくらいになりたい、というのが願いで、それが叶わない。
それでも好きで「やりたい」が強ければ、そこそこ形になるまでデタラメからでも練り回すのであろうが、なんかそうすると部屋の周囲に出鱈目な音をまき散らすことになるので、恥ずかしくて出来ない。ピアノでも悩んで苦心しているところを何度笑われたか。それでいて待っていた現実は賞賛ではなく嫉妬と嫌悪だったのだから。
上手く出来たと自分で思った頃にはお客さんはもういない。そりゃまあ、徒然草にはそれから学ぶべきではないと言われるが、月並みに「能につかんとするもの」で笑われても恥ずかしがらずにする性格があれば、ギターなんてすぐに弾けてしまうもの。残っている動画のコメント見ても本当に罵詈雑言しか付いていないのに楽しんでやったものだ。しかしよく見てみると、そんなに数が回っているわけではないけど、ハートマークのイイネガ2つ3つ付いている曲もあることに気付く。それで心を落ち着ける。
音楽雑誌でも、楽器の広告と楽譜中心の専門誌と、ややリスナやファン寄りの感情表現的な音楽家の人物像的なものがないまぜになっている。どうやって作るかでルート音がどうのこうのなんて、バカでも書かない事なのだ。企業秘密みたいなもんだろうか、とも思うから、じゃあ同業者は仲間なのか商売敵なのか、お金で線引きすると当然音楽でどうにかお金をもらおうとしている側に与してしまったわけで、それ以前は会社員でレコードを買う側だったわけだから、お客さんとして好かれていたかどうかは置いておいて、金銭的には良いお客さんであったはずなんだ。
だから、音楽家と言っても楽器屋さんの良いお客さんであったり、パソコン作曲等の機材の良いお客さんである人、もしくはそのプロモーター広告塔であるケースもある。
お金にならないとは言えない。親父の文具屋に公民館からカシオの電子ピアノの注文が昨年あたりにはいって、店への搬入をした。それ以上は一文も、まあ動画のクリエイター奨励金が累積356円ほどもらえているくらいのことである。もらい方も知らないという同業というか音楽家の人だってたくさんいる中での話だ。
んでそうすると、苦情のようなメッセージ性の楽曲とか、思い切って怒るならモーツァルトのレクイエム「怒りの日」ってあの餓狼伝説スペシャルのラスボスの曲ですよ。そんな心境の音楽なら、出来るのかもなぁ。苦情の暗い歌なら駄作だが怒りまで昇華すると名曲だから、やっぱり感情が貯まるまで心任せに行く部分が無いと、音楽は感情を揺さぶるものであるわけだから、機械的に理性的に演奏するのではなく「乗る」ということがないと楽しくないわけですから。
だからいま産もうとしているものに「乗れるか」みたいなところは必要だと思う。
そうすると、ゲームならキャラ選択の曲とかが序曲になっているわけで、そこから始めたら乗って行けるかもしれないと、まだまだ乗りのコントロールとか引き出しが少ないだけかもなと。さあ、愚痴ってないでもうちょっと何かしてみるか。
はい、勉強不足で生意気言って申し訳ありませんでした。そこを自分で受け入れなきゃね。なんで何も悪いことしていないのに謝ることになるんだろう、と考えてみると無自覚に社会の中で俺はいつも悪者で、それは初等教育から武家屋敷の名残が残っていて、互いに刀を持ち合う切り捨て御免の武家社会では殺されないように最大限大人しく下手に出合うことがこの日本社会の基本ルールだったこと、どこかで忘れたのよね。
楽器を居住区で鳴らすことそれ自体からして「うるさい」わけですから。せめて効いて心地よいから鳴らして良いくらいに思ってもらえたら、創作とかではなく演奏を日々の仕事にしながら自分のやりたいことをその中でどうするか、狭い部屋に如何にギターやピアノや家電や本棚を詰め込むか考えて試してきたみたいに、ちょっとずつするしかないなぁ。まあ賞賛こそ得られていないかもだけど、苦情が来なくなったのも変化か。
