幾つまで元気でいられるのだろうな

 朝食にグラノーラを袋から手に受けてふたくち分ほど食って薬と水を飲んだ。

 朝ドラでは終戦後が描かれ始めたが、まあ戦争の経験は無いもののなんだかんだ47歳まで生き延びてきた。命の危機も何度かあっただろう。それから安全圏を選ぶように生きている。正常な引き籠もりだ。

 しかし、生き延びてもやがてその生き延びた未来を観察する人間としての感覚器である耳目も弱ってゆくのだろうとも思う。同じ時代でも壮健で迎える現代と、衰弱して迎える未来を比較すると、今を大事にしようと思う。

 朝食が雑だったが、アイスコーヒーをボトルからコップに注いでミルクを入れて飲んだ。部屋でこうしてブログを書き始める前に中谷美紀の「天国より野蛮」という曲を聴きたくなってかけた。アルバムの中であまり聴き込んでこなかった曲で気分転換になる。

 しかし最初は注意深く聞いてテレビも消したが、やがて注意は散漫になり、そして気付いたらブログを書きながら曲は「砂の果実」に変わってしまう。

 再生はじめから数えて三曲目になると曲目すら知らないが、心は軽くなっていた。曲名くらい見ようか。「水族館の夜」だ。

 しばし音楽に集中していた。20代はシンガーソングライターで40代になるとプロデューサーになっているはずのライフプランだったのに、何故か20代も30代も派遣プログラマーしか出来ず、鉄砲持って野山で飢えをしのぐ暮らしではなくお金はあったが、多くを作業部屋でパソコンのプログラムの文字を恨めしく睨みつけるような仕事が続いた。おかげで頭はおかしく泣てしまった。

 そう、シンガーソングライターなんて長い名前を覚える前は棋士にも憧れたが、将棋も飽きているのに何故か昨日将棋ソフトの開発を再開した。もうちょっとやりたいことがある。十分な退屈と幸福があると思う。十分というより多くの人からしたら至上かもしれない。

 音楽が止まったので、もういちど同じアルバムを頭からかけることとした。1曲目は「MIND CIRCUS」だ。これ聞いたら終わろう。何を終わるのかは分からないが。

 昔ね、プログラミングが仕事の主体だった時には作業BGMと言ってプログラムコードを見たり何か文字を打ち込みながらそのパソコンのメディアプレイヤーでCDをかけて音楽聴きながら仕事するってのが流行ったことがあるのよ。でもあれ今から考えるとサボタージュだよな。それなのに周囲や上司とか管理職の理解が無いと嘆いた。

 朝ドラを数えるほど見るようになったのはカムカムエブリバディからだと思うので、もう4年か。毎朝テレビを見る生活。それまでは目は活字で耳は音楽だった。いつからか、耳から入る音楽の歌声が活字の文字ではなく体験を伴なう感情と結びついた。

 もともと、グリム童話の絵本が俺の活字の始まりなので、野山で動物と戯れる牧歌的生活だけが文字と結びついており、いつからか文字で示されるものに空虚を感じていた。経験と実存を伴なわない空虚な哲学。これは辞書をこまめに引く習慣がつくとといつからか解消された。国語辞典や英和辞典ではなく小学学習漢字辞典で満点の取れていない部分を補っていく作業を有意義だと思ったものだ。

 まあ、何の話や?と思った人は音楽を聴きながらただ浮かんだ言葉を書き出して、文章の形に整えただけのものを読まされているだけだと思ってください。筆者は浮遊感に包まれている、いま5曲目「my best of love」

 そういや通勤電車の中で読破した森博嗣も、全部覚えているわけではないけど書かれている活字を全部目で追えば読破という事を目標にウォークマンで何か聴きながら流し読んだ部分もきっとあると思うから、あの「楽しかった」という読書の記憶の一部分はそのときにかかっていた音楽にあるのかもしれない。記憶がどんどんうすぼんやりしてくる。

 けどまあ、ラックにずっと眠っていた1枚のCDが本当にとても心地よいと思うような心境にはなったんだ。音楽の方に絶対的尺度で測れる「良し悪し」があるわけではなく、聴き手の方の感性と「合う合わない」があって、会うためにはその曲を既に聴いて覚えて来て「次はこう来る」と思ったとおりである安心みたいなものが条件で、対して新鮮というのは好きで聴き込んだその予定調和から離れることであるわけで、買って聴いたけど覚えていない部分のあるレコードをもう一度聴くという行為がそれに当たる。

 さて、1周したわけでもう書き始めて1時間ほどが経つのか。作家なんてものに憧れたのも、パソコンを買ってから音楽を聴きながら活字をタイプする生活が良かったからで、つまりは音楽をひたすら集中して聴くのではなく「ながら」で出来る仕事ならそれを音楽が楽しくしてくれるということで、会社で味わった地獄は「無音」であった。

 これは俺が子供の頃からテレビのある居間や姉がラジカセをかける子供部屋で育った事にも起因していて、小学校の音楽の授業で習った歌は今でも覚えているし、中高は地獄だったし、帰りのゲーセンで夢中になっていたのも恐らくゲーセンの音楽だ。教師からはタバコではないかと勘繰られたが、タバコを吸うようになったのは30代くらいからだ。

 音楽は俺の心の明かりで、止まってしまって生きることは心の目を閉じるに等しかった。けど先にも書いたように、歌であった声には言葉としての意味もあり、言語空間もそれはそれであるのだが、読書量は少なく言語空間だけで生きてゆくには心細い。

 もちろん、世の中には言葉の通じない世界もあるわけで、そこにあるのは物理だと思って生きてきたけど、自然には物理では分からない事もたくさんあるらしい。自然と遠く離れたアート空間の生き物だけど、建物や家具が木製であることだけに自然の名残を残している、そういう人物像が俺なのだろう。ギターも半分は鉄とプラスチックだけど、ギリギリ躯体が木製というものを使っている。家具も壁も合板なのが辛い。

 アーティストなら自然回帰なんてのは自己否定だと思うが、別にアーティストという肩書に縛られることも無いだろう。さあ、機械から鳴る音楽にもチョット飽きてきた。本当に本物の聞き間違うような音質であると思う。だが、これはまやかしなのだろう。

 小部屋の中にラジカセがあった子供部屋は人という動物を捕まえる巣箱のようなものだと思う。捕まっているのか住んでいるのか、外は危ないので自分で自分を部屋に縛るためにラジカセやパソコンのような機械があるのだろう。そしてその機械が友達の部屋と通信でつながっているとしたら。空恐ろしくなるような世界である。


🄫1999-2025 id:karmen