朝風呂に入り、空になったシャンプーに詰め替え用の袋からシャンプーを移すと袋も空になり「買いに行かなきゃなぁ」と思いながら体を石鹸で洗って髪を洗って髭を剃って、長めに風呂に浸かり、脱衣所に戻って鏡を見ると赤ら顔が出ていた。
何が赤ら顔の原因かは分からないが、グラノーラにミルクをかけずそのまま手に出してボリボリ食うという雑な朝食を1週ほど続けたのは、まあ胃に悪かったかも。
まだもう数日分あって、それ食って無くなって、それから治ればそれって事が分かるかもだ。疲れの取れない病気で夜も眠れないので薬を飲んで寝る生活で、肌がつやつやすべすべだと「何処が悪いの?」と言われ、厚生年金をもらっていることについても「ずるい」と言われたこともあるが、じゃあ不健康で申し訳なさそうに生きる方がいいのかというと、それはいつも悩む。多少の病気を抱えて厚生年金で生きることは収入も少なくお金の自由も限られているが、通勤とか業務とか会社での人間関係を思うと、もうあんな仕事はまっぴらごめんだと思いながらも、世間体のための復職は時々考える。
働きたいと働きたくない、就職したいしたくないという軸で見ると矛盾しているようだが、こんな仕事がしたい、こんな職場で働きたいという意味では自宅でも趣味のプログラミングはして、OSSもしてそんで時々ギターも弾いて、充実というほどではないかもだが、朝9時から夜6時の週40時間労働っていつだれが決めたって、英国式でグリニッジ天文台の時計の通りに仕事するしきたりが政府関係者の外国視察の後に制度として持ってこられたものが、小学校からの義務教育で疑うものの無い当たり前になっている。ここに意を唱える者は今のところ社会斑適合者で少数派で病人である。
しかし俺の生活も毎朝のニュースから朝食のパンに昼はスーパーの弁当かマクドで夜はだいたい弁当屋か外食の持ち帰りで、それらの仕事もバイトかパートの労働で支えられており、運営も間違いなく定時仕事だろう。深夜徘徊とかではなく、社会のリズムに生活リズムはある程度合わせていて、そしてそうすることでの利便性は享受出来ているわけだから、俺がその社会制度に異を唱えるのも早すぎるとは思う。
それにしても、朝からグッタリと疲れている。夏だからというのはあるだろう。冷房の効いた部屋と外気温の寒暖差とかもあるとは思う。疲れている。しんどい。
だがこれくらいの「しんどさ」でしんどいというと本当に死にそうなときに助けを求めてもオオカミ少年みたいに相手にされなくなるという社会の脅しで持って、要介護と病院が判断しても、老人介護で目一杯のヘルパーさんがウチまで回ることはないし、順番的にも親父がもう少し歳を取ったらそっちの方が深刻になるとも思う。予想可。
割と簡単な話で、物事を続けるモチベとして上達とか成長ってのは自身の変化として感じられた時に続ける動機になるんだけど、この47歳ってのが並のやりようでは減衰期に入るからだろうとは思う。それでも、昔と比べたら新しく出来るようになった些細なことというか、小さな気づきはあって、変化に敏感になった気はする。
どういうことかというと、興味の対象が広がって、好きな物事の好きの焦点が当たっていた部分について衰えても、もっと同じものを見ても、色々な観点からちょっとした気づきを伴なって見るようになってきている。野球ひとつでも、勝ったか負けたか、打ったか空振ったか、くらいのことから振らずに受けた球がストライクかボールか、ピッチャーの投球フォームやバットのスイング、球場の周りにある看板の会社名とか、観客席がテレビが大きくなったことで良く見えたり、だいたい子供の頃から野球は退屈で今何点対何点でSBOの数が画面の右下とかに出ていたら、それがゲームスコアのインジケータでその数字しか分からなかったりしたものだ。
ただまあ、敏感になるとちょっとしたこと、例えば音楽を聴くのが趣味だった頃には楽器の出来ないコンプレックスはキッパリとした諦めによって全く鈍感だったわけだけど、楽器をしだすと同じスターでも自分で楽器を持っているいわゆる「バンド」びいきになって、その中でもライブが生演奏か録音かというところに注意深くなり、感性もどんどんケチになって、あんなにCDに夢中だったことを忘れて「生演奏しか聴く価値が無い」くらいの圧で持って音楽に接していた。
そしてそれはいつしか自分に降り掛かり、家で弾く趣味のギター以外にもパソコンで動画見たりライブ聴いたりするんだけど、俺が何かケチになったように、家の近所で大工仕事をしているおっちゃんらの「家でギター弾いてると言ってパソコンで音楽聴いてるだけや」みたいな話を小耳に挟んで、そう言う事にひどく傷心したりする。
そう考えると、割とどうでも良いことに苛まれている気疲れが疲れの原因なのか、人間疲れているとそういうことに敏感になって傷つきやすくなるのか、鶏が先か卵が先か、目下精神病の診断でお薬出ているので、病気が先という事になりがち。そういうことが気になって気を病んでいるということに寄り添ってくれる人はいない。
ギターの稽古もひとりで頑張っているとプラス思考で去年より上手くなったみたいのがあったんだけど、ふとSNSでの他人やいつからか聴かなくなった有名バンドを見ると、自分と比べて自分の出来てなさに痛く傷ついたりもするんだ。本当に辛い。
もちろん、それを乗り越えるのは練習や創作以前の勉強とかがいるんだろうけど、半端な趣味を持っているがゆえに、純然に受け身になって楽しむという事が出来なくなったのよ。まあ暇して色々するうちに、何事に対してもそういう姿勢で勝手に疲れる。
世界中が俺を子ども扱い素人扱いして笑っているんだろうな、みたいな感覚。ただ、当の憧れのバンドの名前もMr. Childrenで訳すとたぶん「父つぁん坊や」くらいの意味で、嘲笑的なのか自虐的なのか、ろくでもない名前のバンドであることも思い出したい。あの桜井和寿手でも、作中では自分自身の未熟さを呪い笑って歌っていたのだ。
まあ、心の疲れやすいの、もつれた糸をほどくように、1本ずつしんどいけど慎重にほぐしていけば、いつかは自分の悩みがすっかり分かってスッキリすると信じている。
結構単純で無垢な自分を隠すための複雑さがもつれたものが病理なのだろうから、家族といるときはいっそ子役で楽なのだが、最近は家族と家族が相まみえる大型モールなどでの食事が、本当に辛い。人んちの人間関係をよそから見て笑わないでと思う。
だから結局外食できなくなって、お持ち帰りのひきこもりにまた戻っているんだよな。そのケンカに疲れている。どこに出ても恥ずかしくない立派なハイソーシャルにはそれはそれで何処か別のプライベートがあるのだろう。かつて日本の首相には風呂とトイレくらいしかプライベートが無いという話であった。
そんなに観察対象にされるくらいの有名人なのか俺は?誰からも隠れられるはずの自室が近所に大工さん来てトンカチコンコンして音の振動で部屋の仲を透けて見られちるようなプライベートの無い感じがとても嫌なんだよ。引っ越すカネも無いんですよ。
