作家性より作品性に重きを置いて味わう

 まあこうしてブログに自撮りを毎日載せて一体このオッサンは何なんだ?と思っていりゃっしゃる方もおられるかとは思いますが、別段に偉い人ではないです。

 ただ、何で別段偉くもないオッサンが自撮りを毎日載せようとするに至ったかについては、芸術の属人性という側面を見ていたからなんですよね。

 すごい芸術を作った人は偉いというのと、偉い人が作った芸術はすごいというのは逆なんです。論理的に大したことのない芸術を作る人は偉くないというのは命題に沿う裏なわけですから、まあだから俺は別段に偉くは無いと申しているわけですが、論理を語るくせに自分の中の非論理性である逆の「偉い人が作った芸術はすごい」は命題と同義ではない、という一点に着目して「偉い人が作った芸術はすごくない」という論理にすり替わっていたわけですよね。

 だからその色眼鏡で持って、著名な芸術家の晩年の作品とか、名が売れて何処かの別の人の権威を高めるために作られた作品に対して斜に構えた態度でもって接していたわけですが、それでもすごい芸術を作って偉いとされている人の別の作品について、属人性をいちど払拭して、もういちど無名の新人が作った新作のような目で持って接すると、やっぱり出来過ぎくらいに良いものだなぁと思うに至ったわけです。

 そして俺は同時に「まだ偉くない新人の作った作品は偉くないわけだから下駄をはかせて評価する」という、もうひとつの非論理性を持っていた事にも気付くわけです。

 それは無名の人が作ったものが他の誰かの作品を思わせるモチーフを持っていた時に、剽窃とか幽霊作家を想起しながら味わっていたわけですが、まあ油絵とかと違って、大きな作品は多人数で作られているものなので、その代表者が誰であるかというような誰かに決めて讃えないと気がすまないみたいなところも治って、良いものだなと。

 まあ、そうなるに至った理由にも小遣いの総額と欲しい芸術品の売価の関係で全部買えるわけでは無いから、自分なりの購買の軸が必要だったみたいなそれに至る理由もまたあるわけで、その垣根を払えたのは十分な富があって価格や名義に囚われずに作品を選べる経済的な自由がそれを支えているのだろうなと思うんです。

 それでまあ、貧民に対する善として「安くて良いものがある」というのを紹介することがひとつの善であると思っていた時期もあるのですが、それも違うかなと。

 ただ「既に今持っているものを大事にする」ということの延長として、大抵の人はその人の青春時代を大事にする傾向があり、しかしそれは日本の社会制度上では思春期に芸術に触れられたとして、その後に受験や就職があり、仕事に就いてしまうと忙殺されてしまって芸術どころではなくなってしまうから、味わう時間の問題で長い付き合いであるものが愛でられるという事とも関係すると考えられ、これから馴染まなくて合わないと思ってきたものに対して、何度も味わってその良さに気付けないと自身の90年代を美化する偏ったところから前進できないかなと、90年代の中でもその後半とゼロ年代の入り口くらいまでの橋渡しをしていかなきゃなぁ、と少しずつ前進しています。

 まあ、そういう特段に偉くもないオッサンが芸術的に微々たる前進をした話。


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