「過去は変えられないが未来は変えられる」というのは努力を正当化する哲学だが、たとえばバラフライ効果で蝶の羽ばたきひとつで世界が変わっているという世界にはタイムマシンがあって、タイムマシンそれ自体にたくさんあるパラドックスを解消しないまま未来は変えられるという哲学に利用される。
その意味では「未来を変えるのは不断の努力である」という哲学にも「未来を変えるのはほんのひとときのひらめきである」という反定立もまた成立している。これは定立と反定立であるわけで、先日SNSで「不断の努力はひらめく確率を上げる」という定立と反定立を繋ぐような発言をした人と、それを批判していた人がいるけど、すでに定立であれ反定立であれ認められた上での議論であるところが虚しい。
テレビで歌手中島みゆきの特集が組まれていたが、「ファイト」の歌詞に「あたし中卒でさ」というくだりを歌で聴いて中島みゆき本人が中卒だと思い込んでいた俺は番組で字幕で出た歌詞の数々に「中卒でこれが書けるか?ゴーストいるのか?」と疑ってネットで見たらプロフィールは大卒だった。「ファイト」は歌詞世界の主役の女性が中卒として描かれているという運びだったようだ。
こうしてブログを書いている俺が休もうと考えたのにも「休め!」という命令幻聴があったことは書いても誰にも分からないと思うが、そう聴こえると言っても自分で考えたことが声として聞こえているのか、外から姿が見えないように音が来たのか、滅多なことで客観的には判断できない。ただひとつ言えることは、幻聴であれ実声であれ俺は人の話を聞いている、命令を受けて従っているという事になる。
当然、誰かの声に従うのであれば声マネや合成音声などで操られるということも有り得るわけで、電話で注文や契約を取るのがカセットテープの声であっても成立するか、それが昨今のネットのショッピングサイトの問題とどれくらい違うか、買い物ならその値段が適正価格なら問題ないが、詐欺や押し売りに負けるのと、金銭的な実害が認められないくても聞かなくていい誰かの話に従っていることで自意識が抑圧されているというのもひとつの病気の形であり、その苦しみが形声となって聞こえてくるのが病気だろう。
そうすると、幻聴というものが命令であったりするとこれは病気であると分かるが、俺は子供の頃からうわの空で頭の中では音楽や歌が鳴っているけど病人としてではなくちょっとぼーっとした姉に言わせると「うつけもの」の少年であった。社会科と運動が苦手で理科と工作が好きな普通の少年だったと思う。
んで何が中島みゆきと関係あるかというと、CDを繰り返して聴いていることが読書量が少なく勉強不足の俺にとって心の根っこにある強烈なメッセージで、また番組に工藤静香が出ていて、アイドル歌手でありながら作詞を中島みゆきが担当しているの、その割り振りを決めた黒幕がいるか、いないとして工藤静香の計算だったとしたら、それは若き日の工藤静香も相当なものだと少し臆しているところがあるのよな。
毎日のように付けっぱなしのテレビ、それは子供時代からウチはそうで、そこから流れる音声が人を支配しているとしたら。俺は相当にテレビの影響を色濃く受けているよな。そして工藤静香は木村拓哉と結婚しており、SNSには「キムタクは女性の嫌がることを決してしない」というファンの書き込みがあり、俺の所作で誰かが気に食わない事をキムタクと比較して咎められているのを俺がどうして気にしているだろうという心理学の問題となる。
俺がネットに書き込むことに対して誰かが不利益になり、それを止めるために何らかの方法で命令をしているものがいると考えるか、それとも俺が損得勘定を持つようになり、これを書くことで利害の発生する相手を思い浮かべ、止める姿を想像しているか。
なんにせよ、蝶の羽ばたきひとつで変わる世界がネットでの言論で変わらないわけがない。アクセスがテレビとかと比べて少ない事に無力を感じるときもあるが、ともするととんでもない破壊力で、ブログで個人攻撃などすると「蚊を撃つのに大砲を使うな」などと非難された事も思い出される。これらは一見すると慣用表現のようだが、していることは命令だ。
そして今後の事を考えるとき、過去は変えられないが未来は変えられるという言葉に対して、行動を変えるには少なくとも自分の記憶にある過去の中からなりたい自分を変えるような変化が無いと行動も変わらない、過去は変えられずとも過去の記憶を変える必要が出て来ているように思う。
俺はこのブログに写真を載せるようになる以前には自分の写真というのをあまり撮らないタイプだった。だが音楽CDを「恋人にしたい女性歌手」ではなく「なりたいバンド」で選ぶ俺にメディアは忖度して歌手の髪型や所作を俺に目一杯寄せてくれた。
もちろん、信じられない人からは歌手に自分を寄せたのではと思うかもだが、これを解消するためには写真か何かの証拠が必要で、そして自分から写真を載せると、それは遠巻きに誰かに似ているということは無くなり、ガン見で比較される。不細工か頑張ってフツメンというところだろう。
ここでジャケ写になれるアーティストをあきらめて音専門で生きるという道を模索したが、その将来像もどうかと思い、ミュージシャンになりたいと思う以前の例えばゲームクリエイターでもパソコンを持っているものが3Dに興味を持っている時代にゼビウスの遠藤雅伸やドラクエの中村光一を崇拝しており、その年からそこを目指して飛ぶと未来にはどこに着地するのかという、タイムマシンの無数のパラドクスを無視すれば普通の物理学でボールを投げたらどこに落ちるかという未来予測の延長でもって、その時代には既に子供の頃からライフプランを持たないと鮨詰めの日本社会では着ける持ち場が無いという状況に東京ではもうなっている、というところが奈良から分かってなかったと思う。
今の俺のままでも、日本社会はやさしい社会で俺の居場所はあるし病死か老衰まで生きていることは考えられる。ただ、したいことは何だったかというところを、もっと過去まで遡って狙い直さないと、未来が求めるものにはならないだろうと思い始めている。若い時には大したことは出来ていなかったが、この妙な焦りと胸騒ぎがあった。
しかし、世の多くの人は俺にひとつのことにじっくり当たれと勧めてくれる。とりあえず、机にある京極夏彦の「魍魎の匣」を4ページほど読み進めた。心に刺さった中島みゆきの歌を自分で書こうとするにつけ、そこから受けた影響を他の進路に変えるにつけ、勉強はいるだろうなと思っている。
「まだ飛べない雛たちみたいに僕はこの非力を嘆いている」まるで言い当てられたような歌がグサッと刺さっている。俺にとっての「銀の龍」は映画ネバーエンディングストーリーのファルコンか、スペースハリアーのボーナスステージで、ドラゴンブリードくらいまで行くとチョット違うともう冷めている。
子供の頃に爺さんからもらった100円玉を握りしめて向かった西友の5階のスペースハリアー以外に俺にはどんなやりたい事や夢があっただろうというと、それはもう星空みたいにキラキラとやりたいことも成りたい人も会いたい人も無数にいるはずなのだけど、何故か意識はそれらを全て押さえつけて、部屋に引きこもって、毎日似たような生活の中に自分を押し込めているのだ。
ただまあ、夏は暑いのでエアコンの効いた部屋にいることに合理性はあるのだが。戦争の時に地雷を無駄なく使うために殺したい相手が祈りに来る墓の前に地雷を置いた話とか、マンガで読んだ気がするんだが、そういう合理性の罠か、もしくは人は楽をしたがるという事から来るおうちを完璧に快適にしてその間に外の世界を何らか侵略するそういう合理性の檻の中にいるのかもしれない。
俺が出たらどうなるか、それは当然帳の羽ばたきひとつで変わる世界で人が家から出たらどうなるかなど予測は出来ないが、俺が家でじっとすることで動けば予測不可能になる世界が何処かの誰かの計算通りに動いてしまっている。そうなると答えは簡単でテレビ局くらいしかそんなことを企むわけが無いというものであろう。考え過ぎか?
