あれから15年も経ってしまった

 MTGでの初入賞はさかのぼる事28年、19歳の頃である。

 それから「昔取った杵柄」でやっていたのが32歳の頃。もう15年も前である。

 あれから町に床屋が出来て、床屋の向かいに美容室が来た。駄菓子屋の婆さんも最近見ないのでもうくたばったかもだが、この町では街頭にポスターが貼られて選挙戦がいつも展開されている。皆の言い分というわけではなく、入った店が悪かったら左の言い分である「公平」を唱える者もいる。類語は「平等」であるが、対義語は「競争」になる。

 んでまあ、MTGのデッキはどれが最強だかという話になるのだが、一等は間違いなく白である。これは公式見解である。そして白のテーマには「平等」がある。

 だが、それと共に白は人間であり、秩序でもある。神が味方してくれるのも白だ。

 「貧しいものへの施しであるはずのものを持てる者が奪うのは違うよ」と言う事。

 しかし富めるものに分ける勤めがあるとして、そこを譲っても権利剝奪までされたら、それは強奪であり侵略ではないか?そんなところの言い分は聞く必要もない。

 MTGの景品が天からの授かりものとして、貧しいものにこそというのはただもらうためのの言い分でしかなく、少なくとも平等であれば誰にもチャンスはあるはずで、ゲームはそれを巡っての競争である。

 平等が競争になってしまう。では競争に公平を持ち込むなら、何が起こるだろう?

 ここでゲームを脇にどけて、好きなものは好きとか当たりハズレなしとか替わりばんこというような発想が出てくるのだが、仏教の無我の境地がデカルトを学ぶと我思うゆえに我ありで論破できてしまう様に、公平な競争なんてものも論理的には自壊する。

 そこまで踏まえて、一等を取ったのだから、その一等景品である「闘争の学び手」を大事にしようと思う。ちなみに「黄金のたてがみのアジャニ」もM10の一等級。

 けど一等、一等級に強いかと考えると、そこは公平色なので、一等は弱いのかも。

 それでも、これは戦利品であるわけでこのデッキでの参加は俺が新しいカードを買い足さない意思の表明であり「当たり」を引いた証でもあるのだ。

 そっから15年も経ってしまった。もういちどスタンダードに参戦するならほとんどのカードを買い直さないと勝てないだろう。参加すらもままならないかもだ。

 美容室の姉ちゃんにそんなことは分かるまい。そもそもが論理矛盾しているのだから。けど、そこが分かって来ると、駄菓子屋の婆さんの思考回路も少しわかった気がする。自分が自己矛盾をはらんでいることを自分自身で理解できていないけど、人は騙すのだ。思えば藤田剛史さんにも随分と騙された。けどあの人もどこまで自覚的なのだろうか。自分自身で信じている人の嘘は本人は本当だと思っていたら迫真の演技ではなく根っからそうに見える。

 その意味ではミノウエ君は人から何のアドバイスを受けても「いや、それは」と撥ね退けたが、それでもモノを分けてくれる人の言う事にはたやすくコロッと行く実利的なところがあったようだ。だが、何もくれない人からの助言はそれが自分にどう得なのか理解が及ばない。自身の行動選択に他者が介入しないように育っているのだ。

 このへんが正中に定まってきたことが、ここ最近のいちばんの収穫である。人はブレる。自分もブレる。何故ならここは商店街で、売買の損得が毎日のようにあるからだ。

 そこは得を目指している限りブレないようで、そうして貯めたカネを物価上昇預金リスク株価上層で地盤から銀行が揺らしてくる。

 そんな心配するほど元手があったらええやん、という感じの今日のデッキ。

 俺のMTG参加の元手となる持ち札がデッキなのよ。大したものでもないけど。


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