バーチャロンマーズを進める(M6)

 俺のやる気を削いでいる原因のひとつに終末思想があることは分かっていた。

 終末思想とは宗教の中に世界の終わりを含んでいる事だが、科学においても天文の分野で太陽は恒星でやがて燃え尽きるとか、地球は砂漠化して人類は死に絶えるとか、そのスケールの大小はあれ、幾重にも理由が重なって人類は滅亡すると考えられる。

 それは限りある人生の中で何か生きる意義を求めようとする人間を休ませるために存在して、終末思想を打ち砕いて新しい生きる意義を打ち立てることは既存の権力の正当性を危ぶませるものとなるからだろう。

 この思考の癖を断ち切って、新しい学びを取り入れる。あきらめないで足搔くのだ。

 何から始めるにも、まず今まで読んでこなかった本を読み、PS2でするゲームはバーチャロンマーズにしている。小さな変化だが、個人的感想として良く効いている。

 あとは寝そべって、右足の人差し指と中指の間が開かないか「開け~!」と念じて力を入れてみる。足指に神経が通ってないのだ。たまにピクッと指が開く。そうすると頭にも何か電気が走ったような感覚が来る。ギターの稽古もそうだ。左指が思い通りに動くまで何年もかかったではないか。

 そうして、体を動かして脳を刺激して、リフレッシュした頭でもういちど考えるのだ。己の可能性に終末思想で先回って蓋をしてラクをすることを正当化してはならない。

 大体からして、IT企業勤務というのが腐っていたのだろう。俺は貧乏と呼ぶには有り余る富を持っている。預金を全部降ろして本を買うと本屋が出来るだろう。だがひとりで全部読むのは気が遠くなる事で、そして今まで少しずつ読んできたが、IT企業で求められるのは一枚で分かる構造計算書や業務フローなのである。

 従業員が枝葉末節に至る業務の全てをこなしながら、上司や顧客に分かる説明を求められる。その説明書通りに仕事が回っている上意下達の木構造では決してないのだ。

 つまるところ、格闘ゲームなどや将棋ソフトの基本的な研究などの趣味活を通して人と話が出来る、話して意味のあることを言える分野は少しはあれ、IT企業勤務なんてのはお役所勤めに準ずるもので、世間にはお構いのない文官としてのお役目だったのだ。

 ひゃー、47歳まで生きて格闘ゲームと将棋しか分からないなんて大変ねぇ!そこにバーチャロンが増えて、あとはテレビ見るか読書するか。旅は鉄道かクルマだから道のある開拓地しか行ったことの無いような人間なんです。いや現代社会に前人未到の地など無いにしてもだ。

 ただゲームによる人との勝負に於いて、果たして未踏の領域が残っているかというと、これはノイマンゲーム理論から自分の研究を推し進めて、チョット誰も読んだことが無いような文章を書けるところまでは来ていると思うから、これはこれでする。

 このように思考の癖からして「前人未到」を何処かに探して第一発見者とか発明家足らんとする思考の癖が子供の頃に読んだエジソンの伝記から始まっているのだろうな。

 そうではなく、どこのお医者さんでも分かるけがや病気をひとりのお医者さんとして治して健康に戻す、太古から継がれている医学のいろはを学ぶ方が人間社会で役に立つかもしれない。そりゃ新種のウィルスの脅威や創薬で人類を救う研究者もいるかもだけど、目下自分の不健康を少しあらためることが、同じ病気を背負っている誰かの役に立つ。

 そう、それで鬱病や無気力に至る思考の癖があって、そのひとつに終末思想を抱くことでの諦めている感は甘い酒のように人を堕落させている。そんなに頑張っても結局死ぬんだよ、滅ぶんだよというささやきに寄りかかっているんだ。

 そうなる前はもっと精力的だったけど、無目的だった。ただ勉強する、練習する、挑戦する。先持って何のためにやるのってのが、いつか全てが叶うくらいにゴールを遠くかすませて一種の思考停止を生んでいたんだ。まずやる。それはそれで賢くない。

 何のためにやるのか、自分はどうなりたいのかをひとつずつ叶えることで、満足を得て前進して自己肯定感が出来て、それがいつしか「もう充分」になって、それから終末を考えるようになったんだ。

 それは恐らく、今の居室の棚いっぱいの本や雑誌というのがひとつのリミットになっているからだとも考えられるんだよな。捨てて入れ替えれば新しいものを入れられる。部屋を広く出来ないなら、コンパクトなものに買い替えるってのが昨今の半導体産業の集積度アップが土地の狭い日本に於いて進歩主義や拡張主義の行き場として適切だからだろう。

 当然、集積度が上がって情報量が増えれば、例えば活字にすると無限に入る。だから映像や音楽にVRなど、体験の高精度化が現在進行形の新しい表現技術なんだ。

 けど、結局それらはひとりの人間に対する体感的なインプットでしかなく、コンピュータに何かをインプットして答えを出す演算的な用途ではなく、ひとりの人間の一生には寿命などの制約があるので、その命の限りの中で体験を良くしようとする試みだ。

 だから、日ごろ遊ぶゲームをカプエス2からバーチャロンに替えたことは、日々の体験を少し新鮮に変えてくれていて、これやろうと思ったらセガサターンの頃から出来たのよねー、とかPS5に買い替えなくて大丈夫だろうか?とも思うんだけど、まあそれも可処分所得や部屋の広さ(容量)との相談なのよな。

 まあ、7年の引きこもりで積読積みゲーを少しずつ消化したことで、また新しいものを受け入れる素地が出来たんだと思う。要約すると「今更、また断捨離?」ですよ。

 スパっと全部捨てるのではなく、部屋のもの少し片づけて、新しいものを入れる。倉庫に住んで倉庫番みたいなゲーム性も同居しているわけです。元気出て来たのかな?

 ただ、いらんものを捨てるのではなく全部置いておくんだって決めて「これいらないよな」と思ったものから新しい知見を得てきたこともまたひとつの事実。いや工夫すれば、捨てずにもっと詰め込める。けど二束三文でも売ってスッキリするのも選択肢。この悩みを往復して時間を奪われているのも問題だよな。黙々と読み進めても、心に残るのはわずかで忘れてしまうという体験と、1冊の教科書を何年もする学校での体験から、1冊をないがしろにせず身に付くまで読みこむってのをすり合わせて今がある。

 その中で、俺の心は今俺を囲んでいるものへの新陳代謝を求めているんだ。やはり部屋の模様替え、ちょうど季節の変わり目だし、何か手を付けなくっちゃだよね。


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