
勝利フラグに最も近いと噂のルーラの指輪を引いたっぽい。間違いない。
RTAを見るとルーラの指輪を装備したまま数歩歩いて飛び回り、階段直行で進んで行くようだ。ただまあ、俺の最深到達会は20階でそこは大部屋モンスターハウス。アイテムを集めて作戦を立ててから降りなければまた死ぬやもしれん。
それでも「こんなの無理ぽ」と思っていたものが「おっ!行けるかも!?」に変わっているので、心の闇を支配していた挫折感はひとまず取り除けた。ポジティブに行こう。ハウツーが「大体」なので、いざ手にすると「どうすんだっけ」てのはある。
バシルーラの杖(もしくは一時しのぎの杖、名称曖昧)を識別している以外は草も巻物も杖もまだまだ不明で慎重に進めたい。
今日の午前中には本棚整理をして、積読のまま整理の時に奥に仕舞った図解雑学とマンガ本を「そういや読めてなかったな」と取り出して、読書とマンガに時間を割いた。最近、単行本のマンガの字は老眼鏡をかけないと読めなくなっている。そして読破は出来ず、40ページくらいで中断。子供の頃ってもっと集中力あって一気読み出来た気がするんだが、気が散って読むのやめてまた読んでを子供の頃の記憶が一冊の本として繋がっているだけやもしれず、何とも言えないところではある。
旅した土地や友人との語らいなど、外向的世界を遮断して引きこもっているわけで、見ている世界が本やマンガの中から取り込んだ内向世界に変わり、そしてその広さが日増しになっている感覚がある。
あんなに夢中になった格闘ゲームは言うなれば運動体験に近く、勝ち負けにこだわってから顕在意識で考えられるものはどう考えても賭博で、それでまあ運動感覚で取り組むと潜在意識が選んだ選択肢の成否に一喜一憂できるのかもだが、プレイ中に顕在意識を保って引いた目でどう出るかとなると相手の行動がまるで双六の出目のようで、麻雀を二千局ほど打って飽きたように、格闘ゲームは飽きている。しかしまあ新しいのに取り組んだりずっと続けている人はそれはそれで尊く、チョットした差の積み重ねが勝敗に顕在化してくる感覚もまたあるのだが、しかしギャンブルの域は出ない。
まあ、双六であるカルドセプトDSでも遊べたのだから運ゲーの中で運を掴む行動に習熟するだけで充分楽しく、それがRPGのキャラデータ経験値の蓄積でカセットやメモリの中にデータを蓄積する面白さと、プレイヤーが経験値を得ると言われるトルネコの面白さまさにその体験が格闘ゲームを休んで空いている穴にハマっている。
他には放置気味のスパロボIMPACTとフロントミッション5の積みもどうにか解消できないかと思っている。もういいやと思っていたが、先の面に進んでユニットが増えて選択肢が増えると、その中で迷うのではなく切り捨てる選択をしてゆくようになるだろうから、そこも将棋ソフトの研究の枝狩りのようなスキルが手に入るかもと思われる。俺の将棋研究の到達点が三手読みで、顕在意識で千から万くらいのノードを読めるかと挑戦していたけど、ちょっと将棋盤をぼんやり見ると直感がパッと答えを出す。やはり潜在意識に頼っているのではないか?数学の難問でも頭が割れるほど考えて、直感が答えを出してから帰納的に演繹証明を記入したりしていた。
天才は飛躍するというが、もし将棋の三手読みに飛躍する直感が無ければ一手ごとに十万ノード読んでいる事となる。ホントにそんな奴いるの?という気はする。いるかもだが、論理性がどうのこうの言うのは結局のところ人間の脳の中でトロい方の顕在意識でもって理解できない事は受け入れないって事で、自我を押し殺すこととなる。やってはダメな当てずっぽうに近い閃きで天才は出来ており、少なくとも正しい事は結果が出てから論理が後付けされてやっと分かる。
しかし、そんな天才性が己にあるとも思えなくなり、愚直な勉強もしてみた時期が辛かった。まあ再三書いているがストIIは弾ジャンケン。顕在意識で考えてプレイしている今の方が昔より勝敗的には良いはずだが、直感が刺激されず楽しさを感じにくい。
そうは言っても衣服に建築物に工業製品なんかは人間が幾ら考えて閃いても顕在意識で持って行動を積み重ねないと出来上がってくるわけはないので、天才なんてのは服を着たサルの域から出ないのであろうとも思われる。そんなの天才じゃない!とお怒りの方もいるかもだが、発明も発明に至る鋳型のシチュエーションにヒトがハマって出来るものという考え方もまたあるのではないだろうか?
そう、オフィス街のビルの一室に閉じ込められてパソコンを前に「生み出せ!」とソフトの研究をさせられていた頃の痛みが少し思い起こされる。今の自室の方が居心地が良く、将棋ソフトにも9年携われている。会社員時代は1本のシステムに最長3年くらい。そりゃ9年やっただけ勘所も分かろうというものだから、現場に先からいたベテランが新参者にチャカチャカと書き換えられたら、それは既存システムと違うシステムになるわけで不都合だったろうとも反省する。いや頼まれてやったことではあるが。
猫も杓子もスマートフォン、買い物はアプリか電子マネーかという昨今のデジタルの使われ方にはほとほと疑問符ばかりである。そうなる前から会計はPOSレジだが。
だから生まれた余暇であり、余暇を楽しくするために作られたゲームで遊んでいるのだな。余暇が自動で楽しくなるわけでもなく、マンガ本を読み込むようにゲームもやりこまないと面白みというか旨味というか、味が出てこないものだ。スルメゲー。
まあでもデジタル双六にガムもスルメも芋粥もステーキもねえだろう、絵柄と音楽が違うだけでゲームなんてのは大体くじ引きか双六かパズルかマリオみてぇなもんだろうって、マリオすごくね?そう、その意味でローグライクとは言うもののトルネコもジャンルの一角を占めるゲームなのよな。ひと言では表せないものをジャンルのひとことにしたゲーム性。つまるところ、類作を遊んでカテゴライズするしか分類法がない。
分類は科学的に顕在意識で行われるが「似ている」と思うのは直感。俺はシレンとモンハン似ていると思うんだけど、ジャンルは全然違って不思議のダンジョンとハンティングアクション。しかしまあ、多彩なアイテムを駆使して時には肉を食って腹を満たし逃げ回って罠を仕掛けてモンスターを狩る。
ゲーム体験それ自体が本当にひとつの冒険譚のような体験として残るゲームなんだ。
じゃあRPGは?というと切れ切れの戦闘と宿屋で満タンと何故か生き返る仲間で、あれはああいう世界つまり世界として心の片隅にはある。シレンはそうじゃなくて登り切ったー!みたいな感覚を得られるゲームだったよな。名作と思うが賛同者は少ない。